黒﨑力斗 Solo Exhibition「PROCESS」
会 期:2024年1月27日(土) - 2024年2月7日(水)
時 間:13:00-19:00 (最終日17時終了)
休 廊:木
場 所:Anicoremix Gallery
展覧会URL:
https://www.anicoremixgallery.com/exhibition/rikito-kurosaki-process-exhibition/
原宿にある Anicoremix Gallery で黒﨑力斗さんの個展「PROCESS」を観てきました。
黒﨑さんの作品は、以前、同 Anicoremix Gallery で2023年9月に開催された Utsuwa (うつわ) さんキュレーションによる Group Show “Advanced Obsession” で拝見し、とても気になっていました。
どこが気になったかというと、
「アニメのキャラクター的人物をモチーフにしながら、描かれ方が絵の具の特性を活かしていて、かつキャラクターの実体が壊れていない」
というところでした。
絵の具の特性を活かしている、と私が言う部分は、絵の具の滲みや掠れの部分です。
いわゆるキャラクター絵画と呼ばれるものは
①輪郭線を壊さないように内部を色で埋めセル画の印象を持たせたままでいる表現
か、逆に、
②絵の具の滲みや掠れを活かし、かつ輪郭線や形も崩していく表現
③絵の具の特性に拠らず、輪郭線や形の崩れが主になっている表現
のように分類した場合、なかなかに面白い位置に存在している作品なのかも、と思いました。
※以下の画像2枚は Group Show “Advanced Obsession” で展示されたいた作品の画像です。本展「PROCESS」の展示作品ではありません。
《skin knit》
分類について、もう少し分かりやすく伝えたいので、少し他の作家さんの作品も引用してみます。あくまでも私個人が考える分類です。
①輪郭線を壊さないように内部を色で埋めセル画の印象を持たせたままでいる表現
描かれている物語や、キャラクターの人物像が主題となっている。キャラクターの実体は壊さない
黒﨑さんもこのタイプではないか、と思いそうになりましたが、やはりちょっと違う、と結論づけました。詳細は後述。
②絵の具の滲みや掠れを活かし、かつ輪郭線や形も崩していく表現
キャラクターとは何か、という問いが根底にあると思われる。キャラクターとして認識されるかされないかの境界を探っているようでもある
③絵の具の特性に拠らず、輪郭線や形の崩れが主になっている表現
②と同様の問いが根底にあると考えられるが手段が違う。現代の視覚的情報量の多さやネット社会と結び付けて解釈されることが多い
①、②、③と作品画像をお見せしましたが、黒﨑さんのさくひは見た目で言ったら①が近い、、、となるのか?
以下より、本展「PROCESS」の画像です。
《layout_1》
《ドローイング_10》
《ドローイング_6》
《layered_2》
《REINA》
《ドローイング_2》
《ドローイング_9》
《ドローイング_1》
《ドローイング_3》
《ドローイング_5》
《ドローイング_8》
《ドローイング_4》
《layout_2》
《ドローイング_7》
《layered_1》
先ほども書きましたが、見た目だけで言えば私の分類の①に近いのでしょうか? ①と②の中間でしょうか? どちらでもない気がします。分類のヒントがステートメントの中にありました。
下の画像のイタリックの部分です。
該当部分を抜き出します。
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ものの成り立ちにはいくつもの過程が存在します。
時にそれは複雑に絡み合い、単一の視点からでは捉えきれないものです。
しかしだからこそ、抽象的な過程を経ることで特定の結果が生まれるという理に、私は興味を抱いています。
本展では「過程そのもの」を表現へと昇華し、私の興味に少しでも触れていただけたら幸いです。
黒﨑力斗
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ここで展覧会タイトルの「PROCESS」の意味が明らかになりました。アニメキャラクターの設定集のようなドローイング群や、油彩の下描き段階で用いられる「おつゆ描き」の時点のようなキャンバス作品は「過程そのもの」を表している、と捉えることが出来ます。
でも私は勝手に、ちょっと違う "過程" を思い浮かべてしまいました。ステートメントにもある「抽象的な過程」という部分です。
黒﨑さんが意図しているかどうかは不明ですが、ちょうど読みかけだったヴォリンゲルの『抽象と感情移入 ——東洋芸術と西洋芸術——』の "抽象の過程" が頭をよぎったのです。
ヴォリンゲル 著 草薙正夫 訳
『抽象と感情移入 ——東洋芸術と西洋芸術——』
岩波書店 1953
この著作の中に書かれていることを私の理解でざっくり言うと、絵を描く動機は大きく分けて2種類あって、それは「抽象衝動」と「感情移入衝動」だということです。
「感情移入衝動」はアート作品に限らず何かを見て感情移入したことがあれば分かりやすいと思います。感情移入出来た作品 = 良い作品、というような判断基準も今日にはあるのではないでしょうか。ものを作りたいと思う動機としてこの「感情移入衝動」が発動している場合がある、ということです。私たちが人間という有機体である以上「感情移入の要求というものは常に有機的なものに向うものであるということは解りきったことだからである。 (同書 p32)」となり、人物や有機的なものをありのまま模写したい、というような模倣衝動とも関係しています。ヴォリンゲルはこのことを「自己活動という私の自然的傾向が、感性的対象から私に課せられた活動と一致する場合、統覚的活動は美的享受となる」としています。
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感情移入が積極的である場合、卽ち自己活動という私の自然的傾向が、感性的對象から私に課せられた活動と一致する場合、統覺的活動は美的享受となるのである。そして藝術作品にとってもまた、この積極的感情移入のみが問題とせられうるのである。ここに、感情移入說が藝術作品に對して實際的に應用せられる限り、感情移入說の基礎が存する。このような基礎からして美なるものと醜なるものとの定義が生れる。
(ヴォリンゲル 著 草薙正夫 訳『抽象と感情移入 ——東洋芸術と西洋芸術——』岩波書店 1953, p21)
※一部、文字コードの制約により新字体に変更
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(この本は旧字体で書かれているので読むのに時間がかかるのです、、、)
しかし、この「感情移入衝動」というのは「ギリシャ = ローマ藝術及び近代西洋藝術」という範囲内でしか有効でないようです。
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むしろ吾々は、かかる感情移入說をもってしては、多くの時代と多くの民族の藝術活動に對するとき、殆ど爲すところがないのである。ギリシャ = ローマ藝術及び近代西洋藝術という狹い枠を踏み越えるところのいろいろな藝術作品のあの巨大な複合體について理解するためには、それは吾々に對して手掛りになるようなものを何一つ提供しない。
(ヴォリンゲル 著 草薙正夫 訳『抽象と感情移入 ——東洋芸術と西洋芸術——』岩波書店 1953, p22)
※一部、文字コードの制約により新字体に変更
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ピラミッドの生命のない形や或はビザンチンのモザイクなどに現われているような生命抑壓を想い浮べるならば、ここでは感情移入の要求が藝術意欲を規定しえた筈はないということは直に判明する。というのは、感情移入の要求というものは常に有機的なものに向うものであるということは解りきったことだからである。そればかりでない、ここでは、感情移入の衝動に全く正反對な、むしろ、この衝動を滿足させるようなものはこれを遠慮なく抑壓しようとするような一種の衝動が現われていると考えざるをえないのである。
(ヴォリンゲル 著 草薙正夫 訳『抽象と感情移入 ——東洋芸術と西洋芸術——』岩波書店 1953, pp.31-32)
※一部、文字コードの制約により新字体に変更
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ピラミッドやビザンチンのモザイクには、実物に見間違えるようなスーパーリアルな有機体の描写はないわけで、「感情移入衝動」とは違った衝動が元にあった、と言っています。それが「抽象衝動」です。
先ほどの引用文のすぐ後に、ピラミッドに感情移入出来ないと言っているわけではない、という否定が入ります。 ここで問題としているのは、結果としての作品に感情移入出来るか出来ないかではなく、創造の動機に感情移入衝動が作用しているかいないかであるということであり、していない例としてピラミッドやビザンチンのモザイクが挙げられています。ビザンチンのモザイクに見られる平面的でキャラクターっぽい人物表現から、私はヴォリンゲルのこの論を借りて「キャラクターは抽象衝動からの産物だ」と主張したいわけです。
ビザンチンのモザイク 代表
《ユニティアヌス帝と随臣》
547年頃
モザイクが繊細な表現に不向きだった、という理由もあるかもしれませんが、体のバランスや服のひだの形状を比べても、やはり元の創造時の「衝動」が違った、と言えそうです。
製作年も見てほしいのですが、時代が進めば進むほど写実的になる、というのはよくある勘違いで、必ずしもスーパーリアルな表現のほうが芸術的な価値が高かった時代ばかりではない、というのは現代の芸術作品を見ても分かると思います。
では「抽象衝動」とは具体的にどんな衝動なのかというと
宇宙に対する内的不安や精神的空間恐怖が元となっていて、それを克服するために普遍的な要素だけを取り出して平面的な表現に落とし込もうとする衝動、と私は理解しています。
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感情移入衝動が、人間と外界の現象との間の幸福な汎神論的な親和關係を條件としているに反して、抽象衝動は外界の現象によって惹起される人間の大きな内的不安から生まれた結果である。
(ヴォリンゲル 著 草薙正夫 訳『抽象と感情移入 ——東洋芸術と西洋芸術——』岩波書店 1953, p33)
※一部、文字コードの制約により新字体に変更
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リーグルはこの抽象衝動を決定的に古代の文化民族の藝術意欲の基礎とした。—— 《
〜 (中略) 〜
そこで彼らは造形藝術によって個々の個物を取出して、明晰な完結せる統一において樹立した。かくてすべての古代民族の造形藝術は外物を明瞭な質料的個體性において再現すること、そしてこの場合自然における外物の明白な現象から、いやしくも質料的個體性の直接に明確な表現を曇らせたり弱めたりするような一切のものを囘避し抑壓することにその究極目的をおこうとした》(Riegl, Spätrömiische Kunstindustrie.) 。
このような藝術意欲の決定的な結果は、一方においては描寫が平面化すると同時に、他方においては空間的描寫が嚴に抑壓されて、専ら單一形態が再現されることとなった。
(ヴォリンゲル 著 草薙正夫 訳『抽象と感情移入 ——東洋芸術と西洋芸術——』岩波書店 1953, pp.40-41)
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別の視点から考えてみたいのですが、一番初めの「キャラクター化」というのはリアルな人体からデフォルメされて生まれたとして (上記引用の「外物を明瞭な質料的個体性において再現する」という段階のことです)
今日、キャラクター的な絵や漫画的な表現を身につけたいと思う人が、アニメや漫画のキャラクターそのものの模倣しかせず、実際の人物デッサンからデフォルメする過程をすっ飛ばしたとしても、キャラクターと認識されるものは描けます。
これはすでに「キャラクター」というものの様式が樹立された後だからであり、キャラクターを描きたいのであれば人物デッサンから始めなくても、キャラクターそのものを模写していくことで様式の特徴を学べば再現出来る、と言うことです (表現を洗練させるために後から人体デッサンを学ぶということはあるかもしれません) 。
これは、漫画を3D化した場合のビジュアルがどうしてもしっくりこない、ということにも関係がありそうです。
キャラクターは元来「平面的」な様式であり「空間」を感じさせては奇妙になってしまうのです。
※キャラクターが、私の主張通り「抽象衝動」から生まれたとして、今度はキャラクターの持つ「可愛らしさ」に焦点をあてると、
「人間が持つ可愛らしい部分」「可愛いと感じる部分」に対して内面不安が潜在的に存在したのか? というような問いは、私的に非常に興味があるところなのですが、
この脱線はまたの機会に考えることにして、黒﨑さんの作品に話題を戻したいと思います。
黒﨑さんの「おつゆ描き」を想わせるキャンバス作品は、セル画の均一な塗り方から明らかに離れています。
《layout_1》(部分拡大)
《layered_2》(部分拡大)
《layout_2》(部分拡大)
《layered_1》(部分拡大)
上の部分拡大画像でも、口や顎、頬肉のつき方の表現からキャラクター絵画である、と私は認識してしまうのですが、これこそが、黒﨑さんの作品が私の分類の①でも②③でもないところなのです。
「抽象衝動」から生まれて樹立された普遍的なキャラクターの要素 ——口や顎、頬肉のつき方の表現であったり、髪の艶、瞳の透明感、鼻の表現、明暗のコントラストの強さ、といった諸要素—— に注目して分類を再度定義すると
キャラクターの様式に準じているが様式に主題があるのではなく物語や人物像を表現するのが①
キャラクターの様式そのものを主題としていて様式の解体を試みようとしているのが②③
だと言え、
キャラクターの様式自体を主題としていて、かつ解体しないのが黒﨑さんの作品
と言えるのではないか、と考えたのです。
《layered_1》(部分拡大)
《layout_2》(部分拡大)
《layered_2》(部分拡大)
《REINA》(部分拡大)
改めてステートメントを読み返してみると「抽象的な過程を経ることで特定の結果が生まれるという理」の部分は、抽象衝動から樹立されたキャラクター絵画の様式、と読めます。
また、ドローイングの作品群には、「キャラクター絵画の様式」と言えるものが至る所に顕われています。
まるで本展のキャンバス作品の制作のための素描がドローイング作品で、それらが並べて展示されている、そんなようにも感じられます。
《ドローイング_2》(部分拡大)
「姫カット」の文字。姫カットも確かにキャラクター様式の要素の一つのような気がします。
《ドローイング_1》(部分拡大)
目を細めた時の表情や手の表現、鎖骨とか肩などに様式を感じます。
《ドローイング_8》(部分拡大)
太ももとスカートのバランス。
《ドローイング_7》(部分拡大)
キャンバス作品の《layered_1》のための素描のような作品。
そして存在感を放っている連作《0.04s》《0.08s》《0.12s》《0.16s》《0.20s》《0.24s》ですが、作品タイトルから、アニメーションの動きを0.04秒ごとに静止画にしたもの、だとすると、動きの一瞬一瞬に顕れている様式の特徴を確認するためのもの、というような見方をしてしまいました。
《0.04s》《0.08s》《0.12s》《0.16s》《0.20s》《0.24s》
《0.04s》《0.08s》《0.12s》《0.16s》《0.20s》《0.24s》
《0.04s》《0.08s》《0.12s》《0.16s》《0.20s》《0.24s》
ツインテールの髪の毛の動きの表現や、スカートの開き方、見えない下着、というようなところに「様式」を感じてしまう、、、
そして、大きめのキャンバス作品《layout_1》《layout_2》《layered_1》《layered_2》に描かれているキャラクターは皆、泣いているように見えるのですが、これは黒﨑さんが命題としている「消費」ということに関係があるのでしょうか? 「消費」されて泣いている?
私がこの感想記事で長々と書いてきたことと、この泣いていることを結びつけるとしたら、泣いている顔がぐしゃぐしゃにならずに可愛さも残して表現されるのは、やっぱりキャラクター的様式美、ということになるでしょうか。
《layout_1》
《layered_2》
《layout_2》
《layered_1》
今、「キャラクター絵画」と分類される作品は多いと思います。ゆえに「同じように見える」と一括りにされてしまうジャンルであると言えます。そんな中で、その様式を極めたような黒﨑さんの作品群に惹きつけられる人が多いというのは非常に興味深い現象です。出尽くした、と思っていた表現は、まだまだ探究の余地があった。
思えば浮世絵に見られる人物表現も、あのような顔貌の人物が江戸時代に多くいた、とは考えられず、当時の「美」をキャラクター化した表現だったとも言えるわけで、日本人はもともと「感情移入衝動」よりも「抽象衝動」に理解を示してきた、と考えられるかもしれません。
「キャラクター絵画」は様式であり、そしてそれは「抽象衝動」から生まれた。ふむふむ、それで?
引用してきたヴォリンゲルの『抽象と感情移入 ——東洋芸術と西洋芸術——』ですが、これのカバーのそで部分には以下の言葉が書かれています。
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西洋芸術のみに優位性を認めていた従来の西洋美学の欠陥を指摘し、東洋芸術、原始芸術にも同等の地位を与えた書。
(ヴォリンゲル 著 草薙正夫 訳『抽象と感情移入 ——東洋芸術と西洋芸術——』岩波書店 1953, カバーそでより)
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「抽象衝動」から生じた様式は、「感情移入衝動」から生じた「ギリシャ = ローマ藝術及び近代西洋藝術」と同等の地位がある、と見なされているのです。
私もつい最近まで、キャラクター絵画はもうお腹いっぱい、と思っていました。それは私が日本人で、あまりにもナチュラルに幼少期からキャラクター的な表現に惹かれていたから、その重要性に気づけていなかったのかもしれません。
先ほども書きましたが、出尽くした、と思っていた表現にはまだまだ探究の余地があった、いや、ひょっとしたらまだほんの黎明期なのかもしれません。浮世絵の時代区分を調べると、初期1650年代〜、後期1800年頃〜というように150年以上の長さがあります。その流れの中に突出した作家が複数現れていたわけです。引目鉤鼻の様式にしても、平安時代〜鎌倉時代と長く続いています。
キャラクターの様式は消費するのではなく究めるものなのかもしれない。
このように、創作の「衝動」の話まで遡って価値を再定義したくなる黒﨑さんの作品群でした。
ぜひ、足を運んでみてください。
展示風景画像:黒﨑力斗 Solo Exhibition「PROCESS」Anicoremix Gallery, 2024
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