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感想 安齋茉由 個展「free park」

 

安齋茉由 個展「free park」

 

会 期:2022年9月10日(土) - 2022年9月25日(日)

時 間:12時-18時

休 廊:9月12日(月)、13日(火)、20日(火)

場 所:Gallery A

展覧会URL:

https://www.gallery-a.art/mayuanzai


 

今回のレビューは画像少なめです。「前情報なしに作品そのものや展示の構成を楽しんで観てほしい」というGallery Aさんのご要望があり、その素敵な考えを尊重したいと思った結果です。当サイトは、どちらかと言うと自由にゲリラっぽくお邪魔しては勝手にレビューしている現状ですが、ギャラリーの方にはお声かけをしているのでそのようなご要望があれば何なりとお申し付けください。そして、実際に展示を観に行かれる方が増えたら嬉しいなと思います。

 

安齋茉由さんは1999年生まれ、女子美術大学洋画専攻卒業、同大学大学院在籍。「シェル美術賞2021」で桝田倫広審査員賞を受賞した「free park 5」は、軽やかな解放感に溢れていて多くの人の印象に残った作品ではないでしょうか。「シェル美術賞2021」のページに掲載されているインタビュー動画内で、選者である桝田倫広さんに「絵画とアニメーションの、これまでと違うような形での融合」と評されていました。

 

展示風景画像:「free park」

向かって左が「free park 5」。2階にも多数展示作品あります。床のちょっとしたところにも何かがあったりするので、注意深く観てみてね。

 

 

「free park 7 (1) 」

セル画のテカテカした感じはないですが透明感がある。顔の向かって左側の、透けた色が影を作っている表現がレイヤーを感じさせます。さらっとした印象ですが、油彩です。

 

 

 

安齋さんは、大学在学中の2020年に起こった新型コロナウィルスによる行動制限の影響で福島に帰省し、少ない道具の中で描いた落書きや、海のように広がる田んぼの風景に自身の「自由」の原風景を見出し、このfree park シリーズの着想を得たそうです。

 

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free park シリーズは、私が思う自由を描いたものです。 自身が社会や性別の枠の中にいて、息苦しいと思う時、無意識に描いていたのが落書きでした。 私にとって自由というのは、絵になる最初の段階の落書きやドローイング、 夏の実家で見る海のようにどこまでも続き波打つ田んぼにあるように思えました。 また、自由ということを考えるほどそれは心地よい虚無のように思えます。

 

Gallery A Exhibition ページより 抜粋

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先日レビューしたパープルームギャラリーでの「キャラクター絵画について」展の図録に掲載されていたインタビューで、同い年の川獺すあさんが気になる作家として名前を挙げていたのが安齋茉由さんでした。川獺さんは安齋さんについて「キャラクター解体的な形で絵画に落とし込んでいる方で親近感があります。 (「キャラクター絵画について 図録より抜粋」)」と言及しています。

 

参考記事 → レビュー「キャラクター絵画について」

 

 

この「解体」という言葉をもうちょっと詳細に掘り下げたいのですが、例えば残像が残っているような線の表現から、マルセル・デュシャンの「階段を降りる裸婦像No.2」のような連続した動作を解体しているのかというと、ちょっと違う印象を受けます。別の作家さんの例を挙げさせていただきますが、LIGHT HOUSE GALLERYで2021年2月に開催された内田ユイさんの個展「CEL DIVISION」にはデュシャンを連想させるタイトルがついている作品があって、もっと密に連続したイメージが連なっています。安齋さんの作品はそういう意図ではないように受け取りました。動きの要素自体は微かに残っている感じ。決まった動きを見せることが一番の目的ではなく、その動きすらも鑑賞者が「自由」に補完できる余白を残しているように思います。アニメ的キャラクター表現が現代美術の中に存在してから産まれた世代「キャラクター絵画ネイティブ世代」(私の造語です) である同世代作家の川獺さんのコメントの「解体」は、作り手である安齋さん自身の身体の動きの解体、そして絵画自体の構成の解体を意味しているのではないでしょうか。自身の感覚で「描く」「描かない」「消す」「消さない」「塗る」「塗らない」という動作を探りながら描かれているように感じました。そこに「自由」が宿り、観る者に無重力の軽やかさを感じさせるのかもしれません。

 

参考記事 → LIGHT HOUSE GALLERY

 

 

「キャラクター絵画ネイティブ世代」と「印象派ブームが起きた日本のバブル期に学生だった世代」とは、「絵画」と聞いて思い浮かぶそのもののイメージが明らかに違うはずです。絵と言えば、モネ、ルノワールの作品がどーんと来てしまう社会の中で生きてきた世代が、いや、俺たちの心を動かすのはこっちなんだ!とアニメ的表現をキャンバスに持ち込むことは、それだけでアンチテーゼとなり得るものでした。「キャラクター絵画」の黎明期には、オタクカルチャーを信奉する層からも反感を持たれ、いわば「反抗期」のような状態だったと言えるかもしれません。その「反抗期」が過ぎ去り、キャンバスにキャラクター的人物表現が持ち込まれた姿を当たり前の様に見てきた「キャラクター絵画ネイティブ世代」は、(作家さんご本人の感覚として、村上隆さんや奈良美智さんと同ジャンルとして語られることには「畏れ多い」というような抵抗はあるとしても) 余計な力みを持たず、キャラクターを用いて純粋な表現の追求が出来るのだと思います。過去の名画のモチーフをキャラクターに置き換えました、という意味付けも不要で、当たり前の人物表現としてそこに存在している。また、記号としての「アニメ的表現」に留まるわけでもなく、人物の顔にしっかり「萌え要素」「エモさ」を乗せながら、色彩、構図など、「絵画としての画面」を追求出来る。「解体」「レイヤー」「余白」というキーワードがありつつも安齋さんが描く顔はちゃんと可愛い。「キャラクター的表現をしていること」に作品のアイデンティティの全てを割り振らず、「絵画としての画面」の巧さと「顔がちゃんと可愛い」ということを軽やかに合体させていることが、「絵画とアニメーションの、これまでと違うような形での融合」ということなのではないでしょうか?

 

2階には安齋さんが大学1年と2年の時に制作したという油彩があります。それらには、セル画を裏から見たような絵の具の塗りがあったり、ある食べ物がベッドの上にたくさんある、という幻覚らしきものが描かれていたりします。本展の free park シリーズにも見られる、どこかセル画を思わせる塗り方や、観る者に少し引っかかりを与える表現のルーツが感じられて面白いです。床や田んぼの表現から草原の描写に繋がっていく経緯も見られます。

 

free park シリーズの人物はフリーハンドで描かれていて、さらっと軽やかに見せていますが、これを可能にするには相当な枚数のドローイングを行ってきたという積み重ねがあるのでは? と推察します。描き込まず、やめ時がとても難しい作品だと思いますが、絶妙なバランスで白く残された部分や、体の線の美しさがあるのに過剰なエロさがない点、激しい感情を呼び起こすようなキツい表現を用いずとも「すごく記憶に残る」点など、「絵が巧い」と言うしかないような良さがたくさんあります。

 

free park シリーズは果たして「キャラクター絵画」に分類されるのか、なども気になる論点ですが、描かれている顔の造形が別の物になると感じ方も変わってしまうし、前述した、キャラクター的表現だけに頼らない画面の完成度から考慮して、これはやはり新しい世代「キャラクター絵画ネイティブ世代」の表現、という見方をして良いのではないでしょうか?

 

近年の行動制限等、重苦しい空気から解放されるような感覚を安齋さんの作品から感じ取る方も多いと思います。ぜひ、足を運んでみてください。


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