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感想 髙瀬きぼりお 作品展「一次元絵画、或る単位、その他の断片」

 

髙瀬きぼりお 個展

「一次元絵画、或る単位、その他の断片」

 

会 期:2022年6月4日(土) - 2022年6月19日(日)

時 間:11時-19時 (最終日17時終了) 

休 廊:月火 

場 所:DIGINNER GALLERY

展覧会URL:

https://diginner.com/2022/05/18/髙瀬きぼりお-作品展【一次元絵画、或る単位、そ/


 

髙瀬きぼりおさんの作品を拝見したのは、3331 Arts Chiyoda で開催されていた、ワンピース倶楽部 (最低一年に一作品 (ワンピース) を購入することを決意したアートを愛する人達の集まり。非営利団体。)の第14期「はじめてかもしれない」展で、でした。

 

その展覧会は、ワンピース倶楽部の会員さんが購入した作品を展示するもので、購入者名は伏せられているのですが購入理由が掲示されており、その理由のほうにハッとさせられることも多かったです。たくさんの様々な傾向の作品がある中で、きぼりおさんの「きみどり、青」「ピスタチオ入れ」という作品が強烈に記憶に残りました。個人蔵の作品なので、ここでの画像掲載はしませんが (作品タイトルのところに、きぼりおさんのインタグラムのリンクを貼らせていただきました) 、言葉で表現すると、きみどり色のL字 (側面は青) が横に倒れた、タイトルそのまんまのような物体「きみどり、青」と、人の顔のように見え、目や鼻の部分に穴はあるけれどピスタチオが入りそうになく、用途もいまいち不明な物体「ピスタチオ入れ」です。ちょっと面白さがありながら、タイトルと作品の関係を見て、色や形ってなんだろう、とか、言葉に必要以上に縛られて思考停止になっていることって多いかもしれない、など、考えさせられる作品でした。2作品のタイトルを入れ替えても、思考停止で「ふんふん、そんなものか」と納得してしまいそうです。

 

そのように強烈なインパクトが残った髙瀬きぼりおさんの作品展に伺ってきました。会場であるDIGINNER GALLERYのインスタグラムに掲載されていた本展のステートメントはとても考えさせられるものだったので、必読と思います。言葉に引っ張られるかも知れませんがここに全文引用させていただきます。

 

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一次元絵画という語を聞いたことありますか?ぼくは無かったです。自分で思いつきました。「絵を描いています」と自己紹介したときに、「平面ですか」と言われ答えにつまったことが気になって、平面について少し考えました。平面は厳密にはこの世界には実在しなくて、観念の中にだけ存在しうるものです。これは直線も同じ。ぴんと貼った布に描いた絵が平面と呼ばれる世界では、ぴんと貼った糸に描いた絵は、線と呼ばれるはずです。線上の絵を壁につけて展示するときにいくつかの問題が起きました。それらを解決する方法がいくつか思いついて、そのうちのいくつかをやってみて、いくつかを展示しています。他のやりかたもありそうですが。

 

平面問題については最近やっと理解しました。絵はかならずしも平べったいものに描かれるわけじゃなくて、器など湾曲した面にも描かれます。そういう前提があれば、「絵を描いています」、「平面ですか?」は成立します。その後は「焼き物です」とか「キャンバスに」というやりとりが続けられそうです。でもぼくの作品はキャンバスの平面性や支持体の構造を疑ってみたりして作っているので、はい/いいえ で回答するための質問の仕方には選択肢がないです。こういった前提となる知識のことを文脈とかコンテクストと言います。現代美術がハイコンテクストだという批判があるけれど、日本の文化も相当にハイコンテクストだと言えそうです。ただその文脈が違うだけで、多くの情報を前提するところが同じに見えます。

 

以前の言語学が言語を定義できていないということで、ソシュールは言語ってなんですかと分析、定義しようとした。ぼくがもしこの世界で平面ってなんですかと問うならば、それを分析するところから始めたい。ぼくにとっての平面はキャンバスだ。キャンバスってなんですか。麻を平織りした布です。平織りってなんですか。二本の糸を十字に重ねたら平織りですか。ちょっと足りない感じがします。まだ平面になっていません。縦糸を一本ふやしたらどうだろう。横糸をもう一本ふやしたならどうだろう。このあたりが平面の始まりのようです。こういったことはコンテクストを共有している人にとって、作品を見ればわかることのようです。しかしそうでない人の、作品の見方を制限してしまうようで心苦しいけれど、これを読んでもなお自由に作品を解釈できると、読む人を信用してここに書いてみました。

 

こういった疑問から始まった絵も作りますが、まったく何も考えてない絵も作って両方発表しています。とにかく絵の具を塗ることが楽しいです。

 

(DIGINNER GALLERY インスタグラム投稿 より)

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掲載しておきながら言うのもなんですが、言葉に縛られずに、まずは自由に作品画像を観ていただけると幸いです。

 

「みずいろ、黄みどり、線」(広角)

 

「みずいろ、黄みどり、線」(部分拡大)

 

「みずいろ、黄みどり、線」(部分拡大)


 

「みずいろ、黄みどり、線」(部分拡大)

 

「みずいろ、黄みどり、線」(部分拡大)


 

オモリ部分は作品ではなく展示するために必要な機能、とのこと。「線上の絵を壁につけて展示するときにいくつかの問題が起きました。それらを解決する方法がいくつか思いついて、そのうちのいくつかをやってみて、いくつかを展示しています。」のことでしょうか。

 

作品ではない部分と聞いても何か美しさを感じてしまって写真に収めてしまう。機能的なものに美しさを感じてしまうのは、骨の構造とか植物の葉脈とか健やかな身体に「美」を感じるよう本能に組み込まれているから? だとしたら、機能しないことで「芸術作品」たらしめている他の数多の作品に対して「美しい」という感想を抱くのはおかしいのか、などと考えたりしました。

 

オモリ部分もそうですが、白い下地が塗られている部分も飽くまでも下地、となるので、作品ではない、ということですね。みずいろ、黄みどりが塗られている線の部分を、じっくり鑑賞するのが斜に構えないスタンダードな姿勢となりますが、オモリとか、下地、麻紐が見えている端など、支持体にばかり目がいってしまいました。この文章においても、線なら「引かれている」となるのに「塗られている」という表現をしてしまって、まるでこの「みずいろ、黄みどり、線」という作品を「線ではなく面」または「三次元立体作品」と認識して対峙してしまっているようです。悪い鑑賞者ですね。

 

他にも、オモリでテンションをかけても「真っ直ぐ」にならず「曲線」になっているところ、壁に映る影と合わせて「二重線」になっているところなどが気になりました。重力やら、天候による湿気やら、照明という光やら、もはや「何次元絵画」だと思っているのか? 作者が「一次元」と正解を示してくれているのに。

 

「みずいろ、黄みどり、線」(広角)

 

 

 

「青い四角 #1」(広角)

 

「青い四角 #1」(広角)

 

「青い四角 #1」(広角)

 

「青い四角 #1」


 

説明がくどいようで申し訳ないですが、この「青い四角 #1」の作品サイズは「4mm square」です。作品リストにそう記載があったので間違いないです。オモリや麻紐の大部分は作品ではありません。「十字架みたい」とか「キリストの磔刑を連想」なんて感想は見当違いです。4mm角の作品を飾る場所なんてたくさんありそうに思いますが、いや、天井高を確認しないと、、、。こちらの作品を購入した場合は、支持体部分は可変で設置してもらえるそうです。

 

 

「キボルドジャッド」

 

「キボルドジャッド」(部分拡大)


 

こちらはドナルド・ジャッド? by 髙瀬きぼりお という感じでしょうか。工作用紙が用いられています。ドナルド・ジャッドはミニマリズムの代表作家と見做されることが多いですが、本人は否定しています。アメリカでミニマリズム・ムーブメントが起こった1960年代〜1970年代は、ベトナム戦争の泥沼化や人種差別の深刻化という社会問題があり、それまで主流となっていた抽象表現主義や、大量生産・大量消費を文脈に持つポップ・アートの登場とはまた別の、異なる価値観が求められていたのかもしれません。ジャッドは、色彩や形状において余分な要素を削ぎ落としただけでなく、作品に物語や象徴といったものが関連づくことも否定しました。

 

ちょっと脱線してしまいそうですが、この「ミニマリズム、ミニマル・アート」と関連づけて語られるものとして、イタリアの「アルテ・ポーヴェラ」、フランスの「シュポール / シュルファス」などがあります。きぼりおさんの作品から感じてしまう問いと関係していそうな要素なので簡単に用語説明をご紹介します。

 

ミニマリズム、ミニマル・アート (直訳「最小限の芸術」)

平面,立体を問わず,色彩や形態の種類を極度に少くした美術の動向。 (コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)

 

アルテ・ポーヴェラ (直訳「貧しい芸術」)

現代の技術社会で最も素朴で見捨てられているような素材を用いた作品をさす (コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)

 

シュポール / シュルファス (直訳「支持体 / 表面」):

絵画の本質的な成立過程と制度性を問い直すために,木枠なしの布を用いたり,絵具の染め込みや同一パターンの繰り返しなどを用いた。(コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)

 

 

 

作品画像に戻ります。

 

「ドローイング / 六角形」

角の数は6つで六角形です。直方体? いや、「平面」作品なので六角形です。

 

「白い四角 #2」

作品リストに (*崩れてきたら土に埋めてください) とありました。あらゆる支持体は朽ちるものです。特別なことではありません。それより「白い四角 #1」に気づかずに中に入ってしまった、、、!


 

「青い四角 #2」(広角)

 

「青い四角 #2」


 

「きみどり、線」

 

「青、線」


 

左:「白い四角 #3」 右:「白い四角 #4」

 

左:「白い四角 #3」 右:「白い四角 #4」


この「白い四角 #3」「白い四角 #4」を額装するとしたら側面が見えるようなボックス型の額に入れてしまいそうですが、これも皆が何となく了承している「平面」という概念の作品なので、作品リストにも幅 (W) と高さ (H) の表記はあっても厚さ (D) はないです。この側面は本来「ない」ものです。でも実際はあるじゃないか? という話ですが、作品タイトルからも推察できるように、少なくとも側面は「作品ではない」部分です。額装時に隠れて見えなくなってもよい部分と言えますが、果たして、そう飾る人は何人いるでしょうか? 私もこの側面が見えるように飾ってしまうと思います。

 

2階の入り口は一つしかなく、会場の動線もあって、まず初めにこの色のついた側面が目に入ってしまう、という展示位置が、何ともニクい演出だなーと思いました。

 

 

左:「白い四角 #3」 右:「白い四角 #4」

正しい鑑賞位置。

 

 

「六角形」

先ほどの「ドローイング / 六角形」のキャンバス作品。今度はキャンバスに描かれているので、無視しようとしても無視できない「厚さ」があります。でも「六角形」です。描かれている部分には「厚さ」がない、ということである、と言い切っていいものでしょうか? 絵の具の厚みを意識して描く作家も、厚みをちゃんと認識できる鑑賞者も、たくさんいます。

 

 

「青、みどり、線」

 

「青、みどり、線」(部分拡大)

 

「青、みどり、線」(部分拡大)


1階の「みずいろ、黄みどり、線」と同じような色と思ってましたが、よく見るとこちらは確かに「青、みどり、線」でした。

 

 

「Untitled」

 

「Untitled」(別角度より撮影)


この「Untitled」の制作年は2010年。他の作品は2021〜2022年です。1階から階段部分、2階と作品を鑑賞してきて、最後にこちらを観ると何か変な気持ちになります。線、四角、六角形、とシンプルな色と形状を観てきたのに、この「Untitled」が一番わかる? ステートメントの最後にあった「とにかく絵の具を塗ることが楽しいです。」を読んでイメージした作品はこういうものではなかったか? きぼりおさんがインスタグラムの投稿につけているハッシュタグ「#絵ってなんですか」、がここで浮上してくるようです。色々考えてみたけど、わかりません! 絵ってなんですか?

 

会場では、他にもきぼりおさんのドローイング作品も販売されていました。

 

現代美術はハイコンテクスト、共通の認識がないとわからない、というのは特別なことではないです。オール巨人さんが「M-1」の審査員引退の理由を「分からない漫才が出てきた」とし、具体的には「最近流行っているゲームなどの知識がベースになっているネタは分かりづらいと、心境を明かした。」とのことでした  (YAHOO JAPAN ニュース「オール巨人 M-1審査員引退の理由明かす「分からない漫才が出てきた」 後任案に千原ジュニアを挙げる」より) 。わー、漫才もハイコンテクストの時代ですね! きぼりおさんのステートメント内の言葉「日本の文化も相当にハイコンテクストだと言えそう」も納得です。文脈を知らないとSNSだって楽しめない。

 

けれど、何となく皆がわかっているからそれでいい、とはならないのが、美術の歴史だったりもします。当たり前や暗黙の了解を幾度も崩し、新しい価値観を創生してきた歴史です。絵ってなんだろう? 一生答えが出なそうな問いではありますが、ずっと問い続けながらの鑑賞をおすすめします。本展にぜひ、足を運んでみてください。

 

最後に、見逃してしまった「白い四角 #1」の画像です。

 

「白い四角 #1」

 

展示風景画像:髙瀬きぼりお 個展「一次元絵画、或る単位、その他の断片」


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