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感想 米澤柊 個展「泳ぐ目たち」

 

米澤柊 個展「泳ぐ目たち」

 

会 期:2025年4月18日(金) - 5月31日(土) 

時 間:13時-19時

休 廊:日・月・火・祝

場 所:SNOW Contemporary

展覧会URL:

http://snowcontemporary.com/exhibition/current.html


 

西麻布にあるSNOW Contemporaryにて、米澤柊 個展「泳ぐ目たち」を観てきました。

 

米澤さんはアニメーターでもあり、本展はアニメーションの技法「オバケ」に着目した『オバケのスクリーンショット』シリーズで構成されています。

 

 

 

「オバケ」とはキャラクターを生き生きと見せるための残像表現のことだそうです。

 

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例えば、キャラクターが腕を振っているアニメーションをつくるときに、その動きに躍動感を出すために、フレームとフレームの間に残像のように崩れた絵によって描かれたフレームが挟まれることがある。それがオバケ。

 

ARToVILLA 【後編】アニメから考えた“生き物”の生と死。そしてオバケ。 / 連載「作家のB面」Vol.18 米澤柊 より抜粋 

引用箇所はインタビュアーの発言

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👇会場でも販売されていたzine『Obake's Screenshots』には具体的な「オバケ」のフレームが載っていました。

 

右ページに「オバケ」の具体例

 

連続したフレームの様子

 

 

 

 

加えて、この感想を書く前に、noteで公開されている垂井真さんのテキストを読みました。鑑賞や感想の参考になるものが盛りだくさんだったため、勝手ながらこちらに共有します👇

 

https://note.com/afterhours_st/n/n67b14c4ad0ef

 

 

 

そこで紹介されている米澤さんの作品の中で、長谷川白紙 - 恐怖の星 のMVが「オバケ」という技法の理解を感覚的に推進してくれたのでこちらにもシェアします👇

 

 

 

 

 

 

さて、ざっくりではありますが前準備が済んだところで本展の作品を観ていきたいと思います。

 

空間を泳ぐ目がカモメに見える、、、

静止している平面作品なのに、動いているように見えるのはさすがアニメーターさん!と思いました。

 

 

 

この表情、、、なんか魚っぽくないですか?

 

 

 

 

 

 

 

 

いろいろな語り口で語れる作品だと思いますが、私は本展から "オバケが存在する3つの境界" を読み取りました。 少し長くなりそうですがおつきあいください。

 

 

 

 

 

1. 自他の境界

 

まず、前述した垂井さんのnoteの内容と重なるのですが、 ”私とあなた (自他) の境界” があいまいになっていることが気になります。

 

本展の作品に描かれたものは、目や口の数などから考えても ”元は複数の身体だったものが混在している” と解釈することが可能です。それらの "目や口" は、”私である” とか ”あなたである” という境界を越えて存在しているようです。

 

 

 

米澤さんによるアーティスト・ステートメントには次のような記述があります。

 

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視覚情報は単なる網膜への刺激ではなく、日常に溶け込んだデジタルツールやiPhoneのスクリーンの向こう側、そして現実の記憶の残像が交差することで、新たな「見る」行為を生み出している。目を閉じても、あったりなかったりするイメージや映像が浮かぶように、私たちの視覚はすでに物理的な光だけに依存するものではなくなった。

この「見ること」の拡張が進んだとき、心の身体はどのように変化するのか。身体中が目になり、やがて「私」そのものが目になる未来が来るのだろうか。

 

SNOW Contemporary 米澤柊 個展「泳ぐ目たち」*アーティスト・ステートメント 米澤柊 より抜粋

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人間の肉体は思っているよりもやわらかく、やがて透明へと変化していく。しかし、それはネガティヴな変化ではなく、自然とともに進むポジティブな進化だ。透明になった肉、より柔らかくなった骨。支える構造が変わることで、魂もまた変容する。

 

SNOW Contemporary 米澤柊 個展「泳ぐ目たち」*アーティスト・ステートメント 米澤柊 より抜粋

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これは鋭い指摘で、私たちは自分の視点でしか物事を見ることができないかと言えば実はそうではなく、FPSのようなゲーム、映像、あるいは絵画鑑賞といったことでも "自分ではない誰かの視点で見ること" が可能です。VR という技術が存在している現在では、そのような "自分ではない誰かの視点" は今後より一層リアルに感じられるようになっていくのでしょう。

 

となるともはや  "自分" という言葉も危うくなってきます。 ”自分だけが見ている世界” というのが果たしてどれだけ存在するのか。インターネットからSNSの出現に至る近年の変化を受けて、私たちは出来事をシェアし共感を得ることではじめて自己を社会に接続しているような感覚になっていると言えるのではないでしょうか。SNSが存在しない時代を知らない人たちには信じがたいことかもしれませんが、ちょっと前までは「プライバシーを晒したくない」「他人が何をしていようが私は興味がない」という意見が大半だったのです。今でもある種のポーズとしてそのようなことを言う人はいますが、実際は、食事、行った場所、思ったこと、生活圏が容易に特定できそうなものに至るまで、私たちは頼まれもしないのに日々いそいそとシェアしています。

 

私はSNSの登場以前に成人しているので今の状況を批判的に語る癖がありますが、米澤さんのステートメントにあるように「それはネガティヴな変化ではなく、自然とともに進むポジティブな進化」であると見るべきでしょう。新たな技術にはメリットとデメリットがあります。デメリットばかりを取り上げて原始時代に戻ることなど不可能ですし、無意味です。

 

このように "視点" 一つを取り出してみても今後 ”私とあなた (自他) の境界” はよりいっそうあいまいになっていくと予想します。

 

 

 

 

 

2. 生死の境界

 

”私とあなた (自他) の境界” があいまいになれば、次は ”生死の境界” があやふやになります。生と死というテーマは米澤さんがさまざまな記事で、アニメーションにおける「生」とは何か、という文脈で語っているテーマです。

 

参考記事:

ウェブ版美術手帖 米澤柊インタビュー。アニメーションの「生」と「死」をめぐって

ARToVILLA 【前編】国立科学博物館を巡りながら“生き物”に触れる / 連載「作家のB面」Vol.18 米澤柊

ARToVILLA 【後編】アニメから考えた“生き物”の生と死。そしてオバケ。 / 連載「作家のB面」Vol.18 米澤柊

 

 

 

”私とあなた (自他) の境界” があいまいになれば ”生死の境界” があやふやになる、という思考の根拠は単純なものでして、 ”私” という個体が息絶えても "あなた" または "誰か" が命を繋いでいれば "死なない" 、というようなことです。個ではなく種としての生命に接続する最初の段階が ”私とあなた (自他) の境界侵犯” になります。

 

 

 

しかし ”種としての生命” のようなメタ視点は性急すぎる気もするので一旦置いておき、本展の重要な技法である「オバケ」を詳しく掘っていきたいと思います。

 

「オバケ」とは、冒頭でも書いた通り、キャラクターを生き生きと見せるための残像表現のことです。「オバケ」という死んだような状態があることで、生き生きとした表現が可能になる、という一見矛盾した状態になっています。

 

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アニメーションを生き生きとさせるための表現なのに、“オバケ”と名付けられているのが面白いですよね。死んだフレームだけど、その存在によってアニメーション内のオブジェクトに生き物らしさが付与される。オバケのフレームがあるということは次のフレームが用意されている可能性が高いから、すごく希望的だと感じます。

 

ARToVILLA 【後編】アニメから考えた“生き物”の生と死。そしてオバケ。 / 連載「作家のB面」Vol.18 米澤柊 より抜粋

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👇再び、zine『Obake's Screenshots』に載っている「オバケ」のフレームを見てみましょう。

 

「オバケ」

 

連続したフレーム

 

たしかに、「オバケ」のフレームだけ取り出すとなんなのかわからない物体のように見え、生気を感じられるかと言うと微妙です。しかし次のフレームも合わせて連続して見ると、それが必要な存在だと分かります。

 

「オバケ」を ”生きているのか死んでいるのか分からない状態” と捉えれば、 それが間にあることで "生" がなめらかに繋がっていく。そのことが、生物が世代交代しながらも命を繋いでいく様に重なって私には感じられました。

 

 

 

 

 

3. 現実と虚構の境界

 

3つめの境界は、現実と虚構の境界です。キャラクターという虚構の存在に現実味を持たせる技巧の一つが「オバケ」なのだからこの3つめの境界は自明である、と言われればそうなのですが。

 

この ”現実と虚構の境界” は、今までみてきた2つの境界を補強するようなものです。2つの境界のうち、 ”他 (あなた) ” と "死" が "虚構" 側にあてはまります。虚構と言ってしまうと語弊がありそうなので言い換えると "想像でしか捉えられないもの" ということです。

 

私たちは他者の思いや本当に言いたかったことなどをコピーするかのように完全に理解することが出来ません。自分ごとに置き換えることで少しズレた状態で理解します。だからこそコミュニケーションでは言葉を尽くすことが誠意だとされますが、言葉を尽くしても完全に理解することは不可能でしょう。想像で対応しているのです。

 

これは1つめにあげた "自他の境界" と矛盾するように感じられますが、ここに現代の人間関係の難しさがあるのだと思います。視点のようなものは他人と共有できるけれども、考え方や感じ方は必ずしも一致しない。限りなく同質に近づいてもどこかでズレる。しかし、このズレが存在するからこそ ”種としての生命” が続いていく。皆が皆、同じ考えや判断では、何かのアクシデントで容易く全滅するでしょう。

 

また、死も想像でしか捉えることが出来ません。

 

「オバケ」は他者であり死んだ者でもあり、なおかつ、私たちに現実的な影響をもたらすものなのです。

 

 

 

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[フィリップ・ヘンリー・]ゴスが魅力的に感じていた宗教上の不変の生物、その時期にダーウィンが発表した変異し進化する生物、そしてゴスによる「アクアリウム」という名付けは革命的でいまにわたって続くものであるが、天動説と地動説がその場に共存したかのように、見える( 信じる)ものと実際に起きていることが関係し、取り違えられる。それが、水族館の面白いところである。

 

美術雑誌『ドリーム・アイランド1 特集:大地=根拠』

生きものが生きる場所 水族館、アニメーション、自然の中で起きている現象すべて 米澤柊 より抜粋

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米澤さんが水族へ関心を寄せていること、表現にも液体のような質感が漂っていることと「オバケ」はここで繋がるのかもしれません。見える( 信じる)もの = 虚構 と実際に起きていること = 現実 が関係し、取り違えられる。

 

 

 

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現実と虚構の魂の地続きさを考えるためには、私がアニメーションを描くことで万物を生み出す神様になるのではなく、目の前に現れるキャラクターの魂やその一部分を、言ってしまえばひとつの科学的な自然として捉え、博物史的に生物として描写する一人の “アニメーター” となる必要がある。この “アニメーター” は、職業や肩書きで使われる際の意味とは異なる。アニメーションはここにいることができなかったものたちを、いることにできる表現でもある。

 

美術雑誌『ドリーム・アイランド1 特集:大地=根拠』

生きものが生きる場所 水族館、アニメーション、自然の中で起きている現象すべて 米澤柊 より抜粋

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”オバケ” は、アニメーションが再生される前にあるべくして描かれる、時間と時間の隙間で生きる、分裂した身体・存在の痕跡であり、同時にアニメーターの拡張された身体感覚となっている。《オバケのスクリーンショット》の ”オバケ” は、キャラクターの記号を持つフレームの絵と同質、同素材で仮置きされる。動くために設計されたキャラクターデザインの質感がアニメーションキャラクターのメディウムとなり、魂 (anima) と置き換えられているのではないか。

 

『Obake’s Screenshot』アニメーションのオバケ より抜粋

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「オバケ」を魂と捉えるこの感覚はとても興味深いです。魂は見ることや触れたりすることが出来ませんが確実に存在するもの、と言ってよいでしょう。魂が変わると顔つきさえ変わることがあります。

 

要介護の父を在宅で診ていた時の話をします。足がほとんど動かなくなって寝たきり状態だったのですが、ある夜とつぜん「郵便局と床屋に行かなきゃ」と言い出しました。その時だけは自由に動けていた頃の魂に戻ったようで、顔が一瞬のうちに10歳くらい若返っていました。さすがに動けるようにはならず一晩寝て起きたら要介護の父の顔に戻っていましたが。現在、父は施設に入所していますが、施設でもときどき同じような現象が起こるようで、職員の方も「〇〇に行かなきゃ、と言っている時は顔がちがう」とのことです。中身である魂 = ゴースト = 精神 = 意識が変わると魔法のように顔が変化する。魂というものが存在すると直観した不思議な経験でした。

 

 

 

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理想や欲望は人の数ほどあるが、どれをとっても言えるのは、その対象が抽象的であることだ。人それぞれが積み重ねた記憶がある上で、仮置きの身体を毎秒設定するのである。それは優しい人でもいいし、鳥でもいいし、海でも、想像上の時間そのものでも良い。想像は、自身の身体を感情移入によって変異させる。なりたいと思ったときにはすでに、その対象になりはじめている。

 

美術雑誌『ドリーム・アイランド1 特集:大地=根拠』

生きものが生きる場所 水族館、アニメーション、自然の中で起きている現象すべて 米澤柊 より抜粋

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この「仮置きの身体」というところに、またしても生と死の連続を感じてしまいます。 ”種としての生命” というメタ視点で考えなくても、私たちは一瞬一瞬のうちに死んで、再び生き返ることを繰り返しているのかもしれません。

 

 

 

 

 

境界に存在する「オバケ」は日本的?

 

以上「オバケ」が3つの境界上に存在する、ということを整理しましたが、「オバケ」を ”境界を侵犯するもの” や "二項対立を解体するもの" と捉えれば、ポストモダニズム的であると言えるでしょう。

 

 

 

一方で、虚構を現実と錯覚させる作家の力量がなければ "境界に存在する" とは感じられなかったわけで。

 

 

 

その意味では、非常に "日本人のDNA" を感じた展示でもありました。動いていないはずの静止画が動いているように見え、時間の流れさえも感じさせる力量は信貴山縁起絵巻に繋がるものがあります。

 

キャラクターの身体が内側から爆ぜて見えるのも、キャラクターとは何かという問いが根底にあり、キャラクターとして認識されるかされないかの境界を探っているようにも受け取れます。拡大解釈が許されるならば、キャラクター = 日本的なものとして、日本的とは何か、を問うていると。

 

先ほどはポストモダニズム的と解釈したのに、急にナショナリズムが出てきてしまった。ポストモダニズムとナショナリズムの間に境界はない、か、境界はあってもその境界上に存在するのが「オバケ」ということか、、、?

 

 

 

単なる偶然かもしれませんが、ポストモダニストとされるジャック・デリダは「憑在論」= hauntology = "亡霊のような方法で、過去の社会的或いは文化的な要素が回帰したり、持続したりすること"  という概念を打ち出しています。亡霊に例えられる文化の回帰や持続は、一連のフレーム内でオバケが繰り返し ( = 回帰) 存在することで動きが滑らかに続く ( = 持続) ことと関連づけて考えたくもなります。

 

本記事でもたびたび引用している米澤さんのテキスト「生きものが生きる場所 水族館、アニメーション、自然の中で起きている現象すべて」には、最後の「生きやすい場所とはどこか」というパラグラフで椹木野衣の「悪い場所」が意識されている、と考えられる箇所があります。

 

 

 

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良い場所は、悪い場所のなかで発生する。

 

美術雑誌『ドリーム・アイランド1 特集:大地=根拠』

生きものが生きる場所 水族館、アニメーション、自然の中で起きている現象すべて 米澤柊 より抜粋

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椹木の「悪い場所」とデリダの「憑在論」とアニメーションの技法である「オバケ」は繋がっていくのかもしれません、、、が、すぐには語れることでもなさそうなため、ここから先は個人で思考を続けることにします。

 

 

 

 

 

本当にいろいろ語りたくなる展示でした。ぜひ、足を運んでみてください。

 

 

 

 

 

展示風景画像:米澤柊 個展「泳ぐ目たち」SNOW Contemporary, 2025


本日のBGM

 

NewDad「Angel」

 

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え?長谷川白紙じゃないんかい、というツッコミが聞こえてきそうですが、まぁいいじゃないか。浮遊感と "You can swim around" という歌詞と、オバケな感じ。

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