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感想 木澤洋一 作品展「Grilling of shrimp on concrete in a high place」

木澤洋一 作品展

「Grilling of shrimp on concrete in a high place」

 

会 期:2023年5月12日(金) - 2023年5月24日(水)

時 間:【ランチタイム】要フードオーダー

            火~土曜日 スパイスハット(カレー)

            11:30-14:30 (売り切れ次第終了) 

            日曜日 星男食堂byデリ山アカ(和洋折衷プレート)

            12:00-16:00 (15:30ラストオーダー) 

          【バータイム】入場料 ¥800、要1ドリンクオーダー

            日~木曜日 20:00-2:00

            金・土曜日 20:00-5:00

休 廊:会期中無休

場 所:Art bar星男

展覧会URL:

https://barhoshio.shopinfo.jp/posts/43254160

 


 

新宿にあるArt bar星男にて開催の、木澤洋一さん作品展を拝見してきました。

 

Art bar星男では、月に2回のペースで展示を行っており、ランチタイムとバータイムに分かれてOPENしています (月曜はバータイムのみ) 。美味しいランチやお酒と共に展示が楽しめ、また、バータイムはアートや音楽などの表現に関わるスタッフさんが日替わりで担当していて、様々な表現を軸に、境界を超えて繋がることが出来る場所を提供しています。

 

 

外壁のペイントは二艘木洋行さんによるもの。二艘木さんは第3火曜のバータイムを担当されています。

 

星男くん。

こちらは、なんと宇野亜喜良さんによるデザイン。


 

ランチタイムに伺いました。

レモン香るチキンカレーをいただきました。

 

本展覧会をイメージして作ったオリジナルカレーはシュリンプのほうでした (オリジナルカレーは5/20土曜日で終了)。 

私はニッケルアレルギーのためココナッツを避けており断念。まぁそういうこともあるよね。


 

 

 

木澤洋一さんは1985年生まれ、セツ・モードセミナー卒業、2013年 雑誌『イラストレーション』主催 ザ・チョイス入選。夢の中のような、奇妙で魅力的な世界を描いています。私は、ジョン・ルーリーの絵や町田康さんの小説『くっすん大黒』の世界を連想しました。めちゃ大好きな世界です。

 

木澤さんご本人が自身を紹介している文にも、その独特な感性が表れていました。

 

「ふと思いついた事や気持ちいい事や、昼間に倒れてしまいたいような気持ちを絵にしています。(アパートメント 入居者一覧 木澤 洋一 より抜粋 )」

昼間に倒れてしまいたいような気持ち。うーん、とても共感出来る。

 

私はできるだけ不毛な絵を描いています。狭い台所で。(Kizawa Youichi stores より抜粋)

何か意味あるものではなく不毛な絵を目指している、と読めて、かっこいいと思いました。

 

 

 

木澤さんは、文章においても独自の才能を発揮されていて、アパートメントというサイトに10年近く物語のようなコラムを発表されています。ついつい読んでしまう中毒性のある文章です。 → 参考:アパートメント 入居者一覧 木澤 洋一 

 

 

本展「Grilling of shrimp on concrete in a high place」に向けてもテキストが発表されていたので、以下に転載させていただきます。

 

 

 

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高いところでエビを焼いているけど、どういうわけかエビと少し距離があり食べられない。

できるだけそんなような雰囲気の、なるべくかっこいい不毛な絵を普段から描いて発表したいと思っているけど、

僕はいつもいつもテレビやスマホン、TVゲームなどに夢中になってしまい、歳をとっています。

そんな事はただちにやめて、早くみんな、愛する人、大好きな人たちとビーチに行って歌を歌ったり踊ったり、

うっかり気絶したりとかしたいと思っているのに、どうしてかいつも何年も何年もその場に留まり続けている。

恥ずかしがり屋だからだ。恥ずかしがり屋は、良くないね。そんなこんなで今のところ、このように絵や文字でずっとずっと自己紹介をしています。

そして実際とにかくほんとにいつもいつもエビが食べたいと思っている。旨いし、なにより明らかに旨そうだからだ。特に焼きエビに塩を振ったものが食べたい。

にもかかわらず、不思議と焼きエビに塩を振ったものは、たぶん一度も食べた事が無いし、ボイルしたエビや生のエビもごくたまに食べるくらいだ。

しかしほんとエビのあまりの旨味が恐ろしい。エビ(カニ)特有のたんぱく質が恐ろしい。今にも胃腸が暴れ出し全身の皮膚の隅々までもが暴れ出しそうだ。

ある程度の大きさのエビを食べる際は一尾にとどめるのがいいと思うね。とにかくエビが食べたい。できれば、カニの身も食べたい。

でも明日もなぜかエビを食べずに、きっとジャガイモとかを食べてる。いったいぜんたいどうしてなの?

木澤洋一

 

(星男 新宿2丁目Art bar 木澤洋一作品展『Grilling of shrimp on concrete in a high place』ページ より抜粋)

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各作品のタイトルも小説の一節のように読めるものが多く、木澤さんの世界の重要な要素となっています。本記事の作品画像前の「」でくくられた部分は長文でも作品タイトルです。画像下の文は私のコメントとなっています。

 

 

 

「高いところにあるコンクリートの上でエビを焼く事、そして私はエビの取り方を忘れました。どうしてこんな絶妙にエビと距離が離れているか分からない」

本展のメインイメージとなる作品です。確かにエビとの距離が絶妙に遠い、、、。そして人物とエビと眼下に広がる絶景とのギャップがすごい。

 

 

 

「高いところにあるコンクリートの上でエビを焼く事、そして私はエビの取り方を忘れました。どうしてこんな絶妙にエビと距離が離れているか分からない」 (部分拡大)

エビ、美味しそう。

 

 

 

「高いところにあるコンクリートの上でエビを焼く事、そして私はエビの取り方を忘れました。どうしてこんな絶妙にエビと距離が離れているか分からない」 (部分拡大)

何かシャボン玉のようなものも浮かんでいるように見えます。


 

 

 

「高いところにあるコンクリートの上でエビを焼く事、そして私はエビの取り方を忘れました。どうしてこんな絶妙にエビと距離が離れているか分からない」 (部分拡大)

人物。どこか人形のような感じを受けました。顔の仮面を剥がしているようにも見える、、、。エビを食べたいのにジャガイモを食べてしまう自分から脱皮するという意志か、、、?

 

 

 

高いところにあるコンクリートの上でエビを焼く事、そして私はエビの取り方を忘れました。どうしてこんな絶妙にエビと距離が離れているか分からない」 (部分拡大)

ここが一番のツボです。これ、この足のかっこう、やる。やってた。特に小学校の朝礼で長い話を聞かされている時などに。


 

 

 

「脇腹と頭頂部に向けてセットされる刃物のアップリケのスウェットを着た、複数の割れ面顔をスキーマスク風の顔に一体化させたままでまた明日に備えて就寝しようとする人。堅い壁にブドウがめり込む。」

タイトルと描かれているものを突き合わせて観てしまう。

 

 

 

「脇腹と頭頂部に向けてセットされる刃物のアップリケのスウェットを着た、複数の割れ面顔をスキーマスク風の顔に一体化させたままでまた明日に備えて就寝しようとする人。堅い壁にブドウがめり込む。」(部分拡大)

脇腹と頭頂部に向けてセットされる刃物のアップリケ。よく見ると不気味なアップリケ。中が空洞の木も気になります。

手に浮く血管も枝のように見えます。

 

 

 

「脇腹と頭頂部に向けてセットされる刃物のアップリケのスウェットを着た、複数の割れ面顔をスキーマスク風の顔に一体化させたままでまた明日に備えて就寝しようとする人。堅い壁にブドウがめり込む。」(部分拡大)

複数の割れ面顔をスキーマスク風の顔に一体化させたままで、の該当部分。

スキーマスク風の顔は中が空洞であるようにも見えます。空っぽの顔にその時々の仮の顔を貼り付けて乗り切った日の、それをそのままにして寝ようとしている状態、と深読みしてみる。そう言えば割れ面顔には口がないな。切れ目みたいなのが口なのかしら。鼻も動物的。


 

 

 

「脇腹と頭頂部に向けてセットされる刃物のアップリケのスウェットを着た、複数の割れ面顔をスキーマスク風の顔に一体化させたままでまた明日に備えて就寝しようとする人。堅い壁にブドウがめり込む。」(部分拡大)

堅い壁にブドウがめり込む。

ブドウは何となく内臓のようにも感じます。汁が垂れている。

 

 

 

「脇腹と頭頂部に向けてセットされる刃物のアップリケのスウェットを着た、複数の割れ面顔をスキーマスク風の顔に一体化させたままでまた明日に備えて就寝しようとする人。堅い壁にブドウがめり込む。」(部分拡大)

この「手」の表現にすごい画力を感じました。木澤さんの不思議な世界に触れた者が、ただ単に「奇妙なもの」として通り過ぎることが出来ずにぐっと惹きつけられてしまう理由には、この画力も大きく関与していると思います。


 

 

 

「トゲトゲシティを歩く。針の下は安全」

木澤さんの作品は不気味さよりも、少年漫画的なワクワクが勝るような気がします。本展のキュレーターの定岡チャンスさんによると「怖い」という感想を抱く人は少ないそうです。

この作品もワクワク感があります。トゲトゲシティを空中浮遊で移動しようとしている (?) 一つ目の僧 (?) 。物語が始まる。

 

 

 

「トゲトゲシティを歩く。針の下は安全」(部分拡大)

ABAB ABと書かれた看板。

ビルの窓も一つ一つ観てしまう。

 

 

 

「トゲトゲシティを歩く。針の下は安全」(部分拡大)

かかと部分の血管が描かれているのが、またしても個人的にツボです。ゆっくりのジョギングをすると末梢毛細血管は発達するらしいです。しかし、ランニングの着地時には衝撃によって毛細血管内の赤血球が壊れると言います。そんなことを考えてました。作品鑑賞によって、身体の進化、変化などが感覚的に喚び起こされたようです。そんな作品ってあまり存在しない。


 

 

 

「トゲトゲシティを歩く。針の下は安全」(部分拡大)

針の下ではニッコリ顔が見えますが、これは割れ面顔ではないだろうか? 針の下は本当に安全なのだろうか?

そんなような話が木澤さんのコラムにあった気がする。→参考:Do farmers in the dark(34)

 

 

 

「トゲトゲシティを歩く。針の下は安全」(部分拡大)

トゲトゲシティは複雑な地形に位置している印象もありますが、、、でも普通に新宿っぽい。


 

 

 

「爬虫類の頭部、猿の尻尾、玉ねぎを載せた人間の頭部を持つ子供、赤い入口か出口に閉じ込められた人間、感情を司る器官である股間は号泣しており、したたる練乳が天井から与えられたりして、体の中心に仕掛けられた針はいつか喉元に刺さる予定で、液晶テレビのモニターにはやはり猿が映し出され、観葉植物はいつも逆さに置かれて、汚水はずっと出続けるけど、とにかく今のところはススメバチがとんでもなく怖い。」

 

 

 

「爬虫類の頭部、猿の尻尾、玉ねぎを載せた人間の頭部を持つ子供、赤い入口か出口に閉じ込められた人間、感情を司る器官である股間は号泣しており、したたる練乳が天井から与えられたりして、体の中心に仕掛けられた針はいつか喉元に刺さる予定で、液晶テレビのモニターにはやはり猿が映し出され、観葉植物はいつも逆さに置かれて、汚水はずっと出続けるけど、とにかく今のところはススメバチがとんでもなく怖い。」(部分拡大)

爬虫類の頭部、

 

 

 

「爬虫類の頭部、猿の尻尾、玉ねぎを載せた人間の頭部を持つ子供、赤い入口か出口に閉じ込められた人間、感情を司る器官である股間は号泣しており、したたる練乳が天井から与えられたりして、体の中心に仕掛けられた針はいつか喉元に刺さる予定で、液晶テレビのモニターにはやはり猿が映し出され、観葉植物はいつも逆さに置かれて、汚水はずっと出続けるけど、とにかく今のところはススメバチがとんでもなく怖い。」(部分拡大)

猿の尻尾、


 

 

 

「爬虫類の頭部、猿の尻尾、玉ねぎを載せた人間の頭部を持つ子供、赤い入口か出口に閉じ込められた人間、感情を司る器官である股間は号泣しており、したたる練乳が天井から与えられたりして、体の中心に仕掛けられた針はいつか喉元に刺さる予定で、液晶テレビのモニターにはやはり猿が映し出され、観葉植物はいつも逆さに置かれて、汚水はずっと出続けるけど、とにかく今のところはススメバチがとんでもなく怖い。」(部分拡大)

玉ねぎを載せた人間の頭部を持つ子供、

 

 

 

「爬虫類の頭部、猿の尻尾、玉ねぎを載せた人間の頭部を持つ子供、赤い入口か出口に閉じ込められた人間、感情を司る器官である股間は号泣しており、したたる練乳が天井から与えられたりして、体の中心に仕掛けられた針はいつか喉元に刺さる予定で、液晶テレビのモニターにはやはり猿が映し出され、観葉植物はいつも逆さに置かれて、汚水はずっと出続けるけど、とにかく今のところはススメバチがとんでもなく怖い。」(部分拡大)

赤い入口か出口に閉じ込められた人間、

いや、鏡に映っている人も気になります。


 

 

 

「爬虫類の頭部、猿の尻尾、玉ねぎを載せた人間の頭部を持つ子供、赤い入口か出口に閉じ込められた人間、感情を司る器官である股間は号泣しており、したたる練乳が天井から与えられたりして、体の中心に仕掛けられた針はいつか喉元に刺さる予定で、液晶テレビのモニターにはやはり猿が映し出され、観葉植物はいつも逆さに置かれて、汚水はずっと出続けるけど、とにかく今のところはススメバチがとんでもなく怖い。」(部分拡大)

感情を司る器官である股間は号泣しており、

 

 

 

「爬虫類の頭部、猿の尻尾、玉ねぎを載せた人間の頭部を持つ子供、赤い入口か出口に閉じ込められた人間、感情を司る器官である股間は号泣しており、したたる練乳が天井から与えられたりして、体の中心に仕掛けられた針はいつか喉元に刺さる予定で、液晶テレビのモニターにはやはり猿が映し出され、観葉植物はいつも逆さに置かれて、汚水はずっと出続けるけど、とにかく今のところはススメバチがとんでもなく怖い。」(部分拡大)

したたる練乳が天井から与えられたりして、

今気づいたけど、この人? たち、歯がないんだわ、、、。


 

 

 

「爬虫類の頭部、猿の尻尾、玉ねぎを載せた人間の頭部を持つ子供、赤い入口か出口に閉じ込められた人間、感情を司る器官である股間は号泣しており、したたる練乳が天井から与えられたりして、体の中心に仕掛けられた針はいつか喉元に刺さる予定で、液晶テレビのモニターにはやはり猿が映し出され、観葉植物はいつも逆さに置かれて、汚水はずっと出続けるけど、とにかく今のところはススメバチがとんでもなく怖い。」(部分拡大)

体の中心に仕掛けられた針はいつか喉元に刺さる予定で、

 

 

 

「爬虫類の頭部、猿の尻尾、玉ねぎを載せた人間の頭部を持つ子供、赤い入口か出口に閉じ込められた人間、感情を司る器官である股間は号泣しており、したたる練乳が天井から与えられたりして、体の中心に仕掛けられた針はいつか喉元に刺さる予定で、液晶テレビのモニターにはやはり猿が映し出され、観葉植物はいつも逆さに置かれて、汚水はずっと出続けるけど、とにかく今のところはススメバチがとんでもなく怖い。」(部分拡大)

液晶テレビのモニターにはやはり猿が映し出され、

いや、鏡に映っている人も気になります (2回目) 。


 

 

 

「爬虫類の頭部、猿の尻尾、玉ねぎを載せた人間の頭部を持つ子供、赤い入口か出口に閉じ込められた人間、感情を司る器官である股間は号泣しており、したたる練乳が天井から与えられたりして、体の中心に仕掛けられた針はいつか喉元に刺さる予定で、液晶テレビのモニターにはやはり猿が映し出され、観葉植物はいつも逆さに置かれて、汚水はずっと出続けるけど、とにかく今のところはススメバチがとんでもなく怖い。」(部分拡大)

観葉植物はいつも逆さに置かれて、

 

 

 

「爬虫類の頭部、猿の尻尾、玉ねぎを載せた人間の頭部を持つ子供、赤い入口か出口に閉じ込められた人間、感情を司る器官である股間は号泣しており、したたる練乳が天井から与えられたりして、体の中心に仕掛けられた針はいつか喉元に刺さる予定で、液晶テレビのモニターにはやはり猿が映し出され、観葉植物はいつも逆さに置かれて、汚水はずっと出続けるけど、とにかく今のところはススメバチがとんでもなく怖い。」(部分拡大)

汚水はずっと出続けるけど、

トゲトゲのついた (根をはってる?) 足裏とか、ベッド下から出ている手も気になります。


 

 

 

「爬虫類の頭部、猿の尻尾、玉ねぎを載せた人間の頭部を持つ子供、赤い入口か出口に閉じ込められた人間、感情を司る器官である股間は号泣しており、したたる練乳が天井から与えられたりして、体の中心に仕掛けられた針はいつか喉元に刺さる予定で、液晶テレビのモニターにはやはり猿が映し出され、観葉植物はいつも逆さに置かれて、汚水はずっと出続けるけど、とにかく今のところはススメバチがとんでもなく怖い。」(部分拡大)

とにかく今のところはススメバチがとんでもなく怖い。


 

一つ一つタイトルと該当箇所を追ううちに、分かった気になってくるから不思議です。色々と対応しなきゃならないことがそのまま放置されているにもかかわらず、とりあえずは目の前のスズメバチだけに恐怖を感じるという、場当たり的な生き方、とでもいうような。

私が言葉にするととても野暮になるのを認めざるを得ない、、、。

 

 

 

 

「爬虫類の頭部、猿の尻尾、玉ねぎを載せた人間の頭部を持つ子供、赤い入口か出口に閉じ込められた人間、感情を司る器官である股間は号泣しており、したたる練乳が天井から与えられたりして、体の中心に仕掛けられた針はいつか喉元に刺さる予定で、液晶テレビのモニターにはやはり猿が映し出され、観葉植物はいつも逆さに置かれて、汚水はずっと出続けるけど、とにかく今のところはススメバチがとんでもなく怖い。」(部分拡大)


この破れた空のイメージから、再度、町田康さんの、今度は『きれぎれ』の最後を思い出しました (未読の方は是非読んでみてください) 。

 

木澤さんの作品への感想を私が言葉にすると、何となく残念になってしまいそうで、書き手としてはかっこ悪いのですが、芥川賞史上最も賛否が大きく分かれた作品と言われる『きれぎれ』を推した石原慎太郎さんの選評を以下に拝借させていただきたいと思います。

 

 

 

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「今日の社会の様態を表象するような作品がそろそろ現れていい頃と思っていた。その意味で町田氏の受賞はきわめて妥当といえる。」「最初に目にした「くっすん大黒」に私が覚えた違和感と共感半々の印象は決して的はずれのものではなかった。」「それぞれが不気味でおどろおどろしいシークエンスの映画のワイプやオーバラップに似た繋ぎ方は、時間や人間関係を無視し総じて悪夢に似た強いどろどろしたイメイジを造りだし、その技法は未曾有のもので時代の情感を伝えてくる。」

 

(選評の概要 第123回 芥川賞 石原慎太郎 より 抜粋)

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「今日の社会の様態を表象するような作品」、「違和感と共感半々の印象」、「時間や人間関係を無視し総じて悪夢に似た強いどろどろしたイメイジ」、「時代の情感」、、、全て木澤さんの作品の感想にそのまま使いたい気分です。

 

町田康さんの『きれぎれ』の芥川賞の受賞は2000年ということで、それからもう23年も経っているのに、「今日の社会の様態」「時代の情感」という言葉がそのまま木澤さんの作品にも当てはまると私が感じるのはなぜなんでしょうか。

 

それは、初めに引用した木澤さん本人の言葉「私はできるだけ不毛な絵を描いています。狭い台所で。(Kizawa Youichi stores より抜粋)」にあると思っています。

 

木澤さんの作品をシュルレアリスムの系譜と捉えてその先を深掘りしないのは少し違和感があります。なぜなら、シュルレアリスムの画家達はおそらく自分達のしていることは新しくて「有意義だ」と信じて作品制作をしていて、木澤さんとはその部分でハッキリと異なるからです。またそのことは鑑賞者の「共感」「理解」にも関係しています。人は理解出来ないものに「恐怖」を感じますが、木澤さんの作品を「怖い」と感じる人が少ないというのは、「共感」や「理解」を得ているからだと言えます。「有意義」ではなく「不毛」を掲げる作品が、どうして鑑賞者の「共感」や「理解」に繋がるのか。「今日の社会の様態」「時代の情感」はそこにあります。

 

これは、私個人の、SNS内での感じ方に過ぎませんが、ともすると、万人にとっての「有意義な」ものを一人一人が生み出そうともがいているのが現代の社会です。

 

ではSNS以前はどうだったのかというと、もう少し「自分の」人生、「自分なりの」考え、「自分だけの」日々といったものを手にしていたように思います。SNSで披露する必要はなかったし、他人のそれも大して知ることが出来なかったからです。であれば、SNSを見ないようにして、SNSがなかった時のように過ごせば、自分を取り戻すことが出来ます。心にも栄養が溜まったような感覚になります。それで良いのに、なぜか、それらを文章や画像でどこかにUploadしないと「現実」にならないような気がしてくるのです。これは由々しき事態です。そして一度Uploadしたなら、なるべく多くの人に見てもらいたい、認めてもらいたい、というような欲が湧き上がってきます。多くの人に見てもらうために、万人に「有意義な」ものを届けなければならない、と変わっていくのです。

 

「有意義な」ものを生み出そうとすればするほど「絶妙な距離で手の届かないエビ」のような、リアルに手に取ることの出来ないもどかしさが増大していきます。それはすでに「自分の」ものではなく、得体の知れない「万人の」ものになったからです。

 

最近は「自分が生み出せるのは、万人に有意義なものではない。おそらく不毛なものしか生み出せない。しかし、不毛であっても、その不毛さを受け入れるべきだ。不毛なものこそが、自分が手に取れる唯一のものだろうから。」などと思うようになっていました。よって「私はできるだけ不毛な絵を描いています。狭い台所で。」という木澤さんの言葉は、私の中で手に取ることが出来るエビなのです。

 

そのような私の昨今の世界の捉え方から、木澤さんが描く作品の数々は、捉えどころのない「今日の社会の様態」「時代の情感」として、かつ、木澤さん自身の手にしっかりと握られているようなリアルさを伴って、私の心に響いたのだと思います。このようにして、木澤さんの作品は、鑑賞者に「共感」や「理解」をもたらすのではないでしょうか。

 

※有意義なものを生み出そうとする意志を完全否定するものではありません。人生の目標として、あるいは、表現の動機として、有意義なものを生み出すことを目指すのは当然であるとも言えます。SNSの欠点は、その達成を、大きなプロジェクトの到達点としてではなく、日々の生活の些細な一部にまでも求めるようになることにあります。

 

 

 

 

「魚捕り放題(それはすごくしんどい、頭に穴が空いて焼き魚の目になった先輩たちの頭部が見える)」

 

 

 

「上空で這いつくばる」


 

 

 

「地球」

 

 

 

「ポロシャツを着た女性。スリットの入った屋根が並んでいる」


 

 

 

「コンクリートの棺から起き上がる目隠しをされたマイボーイおはよぅ〜。元気? ランプの中の顔。水たまり、ステンレスの棒を組み合わせて黄色い粒をつけて人型にしたようなひどく簡素な私の師匠 (この師匠は意識あるのかな?)。トンカチトンカチトンカチ。とにかくトンカチは3人分はあるから。あと4本目の私の頭に刺さってるハンマー。(つまりなんていうか、思うに色々の事情があって、早朝にちょっぴりムラムラしてる時の心境だと思う)」

 

 

 

「早朝4時5時にて、私は布団に横たわる僕の体を放置、凄くつまらないコンテナ空間を散策。そして急に私は私の心臓の気配がしない事にひどくテンパる。(たまたま4時5時に起きたまま就寝し、体が正常に血圧を下げているか正常に血圧を乱高下させている時間帯に、たまたまそれを知覚できる意識の状態だったんだ。朝7時になれば本当にいつもどおり。元気いっぱい。)」


 

 

 

「猿が人と脳を埋めている。人は割と自発的に埋まりに行っているのか、頭から砂をかけられても全然平気な様子」

 

 

 

「部屋の中は火事で、テレビの中も火事で、同時に水漏れもしていて、米は新聞紙の上のおまるみたいな容器に固められて入っていて、僕の体は机に突っ込まれているような自分から机に突っ込んでいるような形で、上半身にはすごい重力がかかっていて、机の上のそら豆がとにかく食べたいけど、どうしても食べられないんだ。※これは人が見る夢のパターンの1つで、夢の中では重力に叩きつけられるか非常にだるいか何かで体は不自由で、食べたいものは絶対に食べられないし、主食は汚いところに入れられているし、火事であれば水漏れもしてるし、逃げ場もないし、空間は突然崩れてしまったりもする。」


 

 

 

「ケーブルがちぎれた」

 

 

 

また、ドローイングも多数展示されています。

購入するとその場で持ち帰りが出来るシステムのため、ところどころ空いています。

前述で紹介した木澤さんのアパートメントの各コラム (参考:アパートメント 入居者一覧 木澤 洋一 ) の「愛を込めて」とタイトルが書かれたヘッダーのドローイングがこちらの作品群です。

 

ドローイングは自由に手に取ることが出来ます。フレーム裏にタイトルがあります。


 

 

 

色々と書いてみましたが、やはり私が言葉にすると作品の良さからどんどん遠ざかっていくように感じています。この何とも言えない良さを確かめに、ぜひ足を運んでみてください。

 

 

 

 

 

展示風景画像:木澤洋一 作品展「Grilling of shrimp on concrete in a high place」@Art bar星男 2023


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