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感想 梅津庸一 個展「緑色の太陽とレンコン状の月」

 

梅津庸一 個展「緑色の太陽とレンコン状の月」

 

会 期:2022年9月10日(土) - 2022年10月8日(土)

時 間:12時-18時

休 廊:日月祝

場 所:タカ・イシイギャラリー(complex665)

展覧会URL:

https://www.takaishiigallery.com/jp/archives/27452/

 


 

梅津庸一さんは1982年生まれ、東京造形大学絵画科卒業。2021年9月から2022年1月にかけてワタリウム美術館で開催された「ポリネーター」展を観に行かれた方も多いのではないでしょうか? 「ポリネーター」は花粉媒介者、送粉者という意味で、多岐にわたる梅津さん自身の活動を俯瞰出来る個展となっており、日本に外光表現をもたらしたとされる黒田清輝の師匠ラファエル・コランの作品「フロレアル」を引用し自身を描いた初期の作品から、顔がそっくりだった大叔父 (真珠湾攻撃で戦死) をシルバーポイント (銀筆) で精緻に描いた作品、高尾山そのものに素っ裸でジャムを塗る様子が収められた映像作品、私小説的な趣きのドローイング類、そして2021年から本格的に滋賀県の信楽に滞在し取り組んだ陶作品シリーズなどが、「花粉」というキーワードで繋がるような印象の展示でした。また、梅津さんと言えば2014年より「パープルーム」というアート・コレクティブを立ち上げ、芸大主義に収束してしまうような美術教育のあり方を批判する立ち位置としてのパープルーム予備校や、非営利ギャラリー、YouTubeチャンネル「パープルームTV」を運営されていることでも知られています。他、トークショー、テキストの執筆等、様々な活動を通して「これってどうなの?」と日本の美術界に疑問を投げかける存在であり、2020年12月号の美術手帖 特集「絵画の見かた」の監修も記憶に新しいです。

 

そんな梅津さんですが、フレンドリーに話しかけてくれる方でもあります。パープルームギャラリーで開催されていた「キャラクター絵画について」の感想記事を書いたことから、梅津さんの個展の感想も「よかったら書いてください」と嬉しい許可をもらえ、その時たまたま在廊されていたご本人にざっくばらんにお話を訊くことが出来ました。

 

 

 

本展の「緑色の太陽とレンコン状の月」というタイトルの「緑色の太陽」というのは1910年に高村光太郎が発表したエッセイから引用されています → 全文参照リンク

 

「人は案外下らぬところで行き悩むものである。」から始まるこのエッセイには、画一化された常識の下では描かれないであろう「緑色の太陽」をキーワードに出しながら、作家が「おのずから附帯して来た」ものを認める眼差し、また「これを力めて得ようとすると芸術の堕落が芽をふいて来る」といった芸術論が展開されていきます。

 

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人が「緑色の太陽」を画いても僕はこれを非なりと言わないつもりである。僕にもそう見える事があるかも知れないからである。「緑色の太陽」があるばかりでその絵画の全価値を見ないで過す事はできない。絵画としての優劣は太陽の緑色と紅蓮との差別に関係はないのである。この場合にも、前に言った通り、緑色の太陽としてその作の情調を味いたい。

(中略)

いくら非日本的でも、日本人が作れば日本的でないわけには行かないのである。

(中略)

僕は日本の芸術家が、日本を見ずして自然を見、定理にされた地方色を顧ずして更に計算し直した色調を勝手次第に表現せん事を熱望している。

どんな気儘をしても、僕等が死ねば、跡に日本人でなければ出来ぬ作品しか残りはしないのである。

 

高村光太郎「緑色の太陽」 より抜粋

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別の作家さんの話で恐縮ですが、私はこの夏にROY TAROさんという、美術大学での教育を受けていない作家さんの個展にお邪魔しました。ROYさんの作品制作の軸には「翡翠の太陽」という緑色の太陽の存在があり、私はこの高村光太郎のエッセイに言及しない感想をあげました (ROYさん本人も「Jade Sun」という単語がある日閃いたこと、語感も含めて「Jade Sun」であり「Green Sun」ではないということを言っていたので直接の関係はないと思います) 。後日ROYさんからは、後から知った事実として「グリーンフラッシュ」という日の出または日没の一瞬に太陽が翠に光って見える現象がある、ということを教えてもらい、また私が調べものをした先で辿り着いた、太陽の表面温度は波長の光で判別していて実は緑色が一番強く、そこから約5,700℃とされたというなどもあったのですが、どういう偶然で「緑 / 翠」の太陽という単語が出てきたのか? に若干の興味が湧いています。何色が正解だ、真実だ、という話でもなく、何か「真髄」を見ようとする者は時代や境遇を超えて共通意識で繋がれるのではないか、というようなことです。本展で梅津さんが高村光太郎のエッセイについて「僕が近年ずっと抱えていた問題意識と共振するような内容で驚いた。100年以上も前に書かれたこのテキストはたんに芸術論であるばかりか、現在わたしたちが直面しているコロナ禍、そして不安定な世界情勢の中でどう生きるべきかを示唆しているように思う。」と言及していることにも繋がります。花粉によって受け継がれるもの。

 

「花粉」は梅津さんの活動を語る上では重要な単語です。本展には出品されていない陶作品に「花粉濾し器」という作品があります。「花粉濾し器」は梅津さんが初めて作った陶作品で、左右非対称のテニスラケットが合体したような形状は、籐椅子に座った時の蒙古斑の接触面の形、ラケット、耳、フィルターなど、複合的で1つのイメージに偏らないよう考案された形状をしています。「蒙古斑」という単語は梅津さんが2013年に「であ、しゅとぅるむ」展 (名古屋市民ギャラリー矢田、2013) のカタログで発表したテキスト「優等生の蒙古斑」との繋がりを連想させます。「優等生の蒙古斑」とは美大合格を目指して通う予備校それぞれの表現の特徴が、美大に合格し、卒業して作家となり活動している時分にも根強く残っていることを指摘したものです (梅津さんの地元には美大受験予備校がなく、全国の予備校の入学案内カタログに掲載された「生徒による優秀作品」を手本としてデッサンを勉強していたため、作家〇〇さんはおそらくすいどーばた美術学院、というような予測が梅津さんには可能) 。また「花粉濾し器」の土台は量産品のフライパンを型にして制作されており、その後に制作される他の陶作品の土台が量産品のトレーなどから型を取っていることに繋がっていたりします。

 

「花粉」は、教育や流派、師弟関係に拠らず、どこで受粉し結実するか不確かな要素を有しています。

 

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「花粉」はパープルームを語る上で⽋かせないタームである。「花粉」は性格や癖、創作⾏為などが伝搬し「受粉」する可能性を⽰唆する。「花粉」は空気中をふわふわと漂いどこに漂着するのかは誰にもわからない。⾶距離が⻑くなれば空気中の「花粉」の濃度は薄くなる。しかし花粉は地盤や時間の制約をある程度回避することが可能だ。すなわち、パープルームは「悪い場所」と「傷ついた時間」を離れ、あてどなく、わけもなく浮遊する「花粉」の可能性に賭けているのだ。

 

「平成の気分」についての雑記 より抜粋

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梅津さんが近年、信楽に部屋を借りてどっぷり取り組んでいる陶作品には「民藝運動」の「花粉」を無視しては語れません。

 

 

「Ceramics and Art」

陶板作品。通常なら焼成により反ってしまう陶板を反らずに制作できるのは大塚オーミ陶業株式会社の協力によるもの。セラミックタイルなどの建材などにも用いられている技術。窯業の歴史と技術が感じられます。

【パープルームTV】第127回「梅津庸一 ポリネーター アーティストトーク 信楽での作陶の日々を語る Part 2」

 

 

 

「民藝運動」とは柳宗悦を中心として興った生活文化運動で、1926年の「日本民藝美術館設立趣意書」の発刊から開始されたとされています。無名の職人による手仕事の日用品の中に「用の美」を見出し、活用することを主軸とします。柳による民芸品の定義は「作者が無名の職人である」「実際の生活で使用されるものである」「地方の特色が現れたものである」となっており、現代において私が「美術品」と見做す要素 (作者が分かっている、実用的でない、普遍的テーマがある、など) とは真逆のものの中にある美を訴えていると言えます。

 

梅津さんが作陶の場としている信楽の土は大きな陶作品の焼成に耐え得ることが特徴です。浴槽なども作ることが可能なのだとか。また、一度は目にしたことがある、たぬき、傘立てなども作られています。また、昨今の陶作品ブームにより、著名な美術作家の陶作品が職人の手により制作されているそうです。梅津さんは、たぬき、傘立てのような「手作業だけれども大量に作られる規格品」と「作家本人の手によらない美術作品」(梅津さんはどちらも否定をしている訳ではありません) が制作されている現場に身を置き「自分は自分の手で陶作品を作りたい」という考えのもと、制作をしています。成形の後の乾燥、窯入れ、など時間に余裕がない場面も多い作陶の現場では、24時間休みなく稼働することもあるそうです。(→【パープルームTV】第126回「梅津庸一 ポリネーター アーティストトーク 信楽での作陶の日々を語る Part 1」では50時間というワードも出ています。)

 

 

 

梅津さんのツイッターに載せられているたぬきたち


 


また釉薬についても、オリジナルの釉薬 (梅流紋釉) を現地の釉薬制作会社「釉陶」さんの協力を得て制作し使用している他、昔ながらの「海鼠釉 (なまこゆう)」なども用いています。絵の具以上に、色そのものにも歴史がある窯業の世界。そういった歴史を、現地で様々な人とコミュニケーションを取りながら学び、手探りで生み出した表現が梅津さんの陶作品です。

 

「Billboard」

海鼠釉を使用した作品。

 

「Billboard」(部分拡大)

海鼠釉は釉色が海鼠に似ているところから名付けられ、火鉢などによく用いられたそうです。最近のものは青い色をより鮮やかに発色出来るよう改良されており、本作品に用いられています。


 

「Renkon-Shaped Moon」

 

「Renkon-Shaped Moon」(部分拡大)

まるで天然石が乗っかっているように見えますが、釉薬を多く使用するとこのような質感になるそうです。梅津さんが「美しい」と思う伝統的な表現を散りばめている。


 

「Round Stone」


 

「Bottle Mail Ship」

ボトルに手紙などを入れて川や海に放流し、宛先を特定せず誰かに届けるという行為は「花粉」の概念に似ています。

【パープルームTV】第129回「梅津庸一 浜名一憲 6つの壺とボトルメールが浮かぶ部屋 解説動画 Part 1」8:04

 

「Bottle Mail Ship」(部分拡大)

瓶のガラス部分が溶け出しています。釉薬は焼成するとガラス質の膜を形成するそうです。こちらは既製品の瓶を釉薬にしたもの、と捉えられます。透明感とひび割れた様子がきれい。


 

「Bottle Mail Ship」

瓶の口が割れて下に落ちたものは偶然の産物だそうで、狙って出来るものではなく、レア。

【パープルームTV】第131回「梅津庸一 浜名一憲 6つの壺とボトルメールが浮かぶ部屋 解説動画 Part 3」1:38

 

「Bottle Caught In A Mixed Forest」

海に放ったはずのボトルが、何らかの偶然によって雑木林に引っかかった様子を表しています。

【パープルームTV】第130回「梅津庸一 浜名一憲 6つの壺とボトルメールが浮かぶ部屋 解説動画 Part 2」13:54〜

偶然ですが、奥の窓から見える工事現場で組まれた足場に布のようなものが引っかかっている様子とちょっとリンクして見えます (工事現場のほうは必然で布が置いてあるのだと思いますが)。 


 

「Crystal Palace」

 

「Lustrous Tile」

菱形については、床のタイルを斜めから見ている形であり、視線を誘導するもの、または、集まることで面を構成する、という意味合いがあります。

【パープルームTV】第130回「梅津庸一 浜名一憲 6つの壺とボトルメールが浮かぶ部屋 解説動画 Part 2」3:10〜


 

「Lustrous Tile」(部分拡大)

 

「Green Sun and Renkon-Shaped Moon」(部分拡大)


 

「Green Sun and Renkon-Shaped Moon」

 

オリジナルの釉薬の制作や、土そのもののような粘土という材料に触れることで、絵画に用いているキャンバスや絵の具も「製品」であることに意識的になった梅津さん。「絵画作品は企業の人が頑張って作った製品を加工しているにすぎない」→【パープルームTV】第126回「梅津庸一 ポリネーター アーティストトーク 信楽での作陶の日々を語る Part 1」18:40〜

 

これにはそこまで気付く梅津さんが稀有というか、すごいなという感想です。というのも、私の話で恐縮ですが、この動画内で名の挙がっている世界堂で何年か働いた経験があり、その時、店頭で受ける質問には「〇〇を△△に使用したらどうなりますか?」系の、要は製品を想定されている用途とは違った形で使用したいが問題はないか? という質問がとても多かったのを覚えています。もちろん、作品の耐久性に関わる重要な問いなので、難しい問題はメーカーの技術部と呼ばれるところに確認してから回答するのですが、ある時その技術部の方が何気なく「みんな、なんで書いてある通りの使い方をしないんだろうねぇ、、、」と漏らしていて、私にもそのやるせ無い気持ちが伝わってきて、なぜか吹き出してしまったのを覚えています。「化学」を専門に学んできた人たちが、100年先の未来にも「作品」が残ることを想定し耐久性を考慮して、日々、研究・改良を重ね生産されるのが描画材です。本当に「無名の職人」が「実際の生活で使用されるもの」を作っていて、それは「メーカーという特色が現れたもの」になっている。そういう人たちの専門的な知識の上に「作品」は成り立っていて「民藝運動」にも類似する事柄と思いました。とはいえ、使用方法にはない使い方を試してみたくなる創造性も理解出来るので、画材屋はユーザーとメーカーの両方の立場を踏まえつつ、何が可能で何が不可能か、将来危惧される変質の可能性などを正確に伝えるのが仕事です。そういう意味では媒介者になり得たのだろうか、、、。

 

ペインティング作品は、絵の具の粒子が紙へ染み込む具合の違いを踏まえて制作されているようで、色の粒を意識したような表現がそこかしこに見られます。

 

「Inner Studio (red) 」

 

「Inner Studio (red) 」(部分拡大)


 

 


下の画像の陶板の作品もまるで水彩画のような滲み、ムラ、重なりがあります。つい足を止めて見入ってしまう。

 

「Heart Racing」

 

「Heart Racing」(部分拡大)


 

 

 

以上を踏まえた上で本展の感想を述べたいと思います。

 

数に圧倒される本展の陶作品ですが (160点の陶作品と陶板含む40点の平面作品) 、その不思議な形状によっていくつかの種類に分けることも出来ます。この形の不穏さ、よく分からなさ、そこに梅津作品の魅力があると感じました。

 

「Billboard」

 

「Receiving Saucer」


 

「sleep in the sky」

 

「sleep in the sky」


 

前述のとおり「24時間休みなく稼働することもある」梅津さんですが、ある種の極限状態で発動する「ゾーン」状態になった感覚はあるか? と質問しました。「ゾーン」とは「フロー」とも言われ、スポーツ選手などが経験する、全ての感覚がフルになった状態、極度の集中状態を言います。エクストリームスポーツのプレイヤーも「ひょっとしたら落命するような危険な状態」を経験しているため、この「ゾーン」の発動率が高いそうで、スケートボードプレイヤーがペインティングをする理由と関係があるのか、と興味深い話でもあります。また、この「ゾーン」は梅津さんに否定されたので、本人にはその感覚はないそうです (私の訊き方が不十分だった可能性もあり) 。では、なぜ文字をさいてこの「ゾーン」を取り上げるかというと、作品を観ている私にはこの「ゾーン」状態を連想させるような不思議な感覚が感じられたためです。

 

「ゾーン」をはっきり否定出来るほど明晰な意図のもと制作している梅津さんの作品から、受ける印象は感覚的なものでした。時間の概念も薄れるような極限状態で見えた形をそのまま練り出している、という印象です。ちなみに私はそういう作品が好みです。

 

「ゾーン」とは違うのですが、別展覧会での制作時の経験として、【パープルームTV】第130回「梅津庸一 浜名一憲 6つの壺とボトルメールが浮かぶ部屋 解説動画 Part 2」で語られたことによると

 

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絵画における技法材料や保存修復的な意味での絵の具ではなく絵画というものが持ちうる霊的な世界

あまりの寒さと疲労によりそういった領域を垣間見た

 

【パープルームTV】第130回「梅津庸一 浜名一憲 6つの壺とボトルメールが浮かぶ部屋 解説動画 Part 2」 11:00〜 字幕部分より抜粋

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と過去には不思議な領域と繋がった感覚があったらしいことは窺えます。

 

形の奇妙さは自明ということなのか、あまり形の異常さに突っ込んだ感想を見ない気がする、、、?

 

今、私は観察についての本を読んでいて、そこに書いてあることによると「深い観察」には「ネガティブ・ケイパビリティ」という技術が欠かせないそうです。該当の本については別記事で感想を書く予定ですが、「ネガティブ・ケイパビリティ」とは何かというと、簡単に言えば「分からないものをすぐに言語化して分かったことにせず、分からないままにしておく」と言うことです。

 

よくよく考えれば、梅津さんの作品は「分からない形状」ばかりです。それでいて、どこかすんなり受け入れてしまうような雰囲気もあります。実際に「これは何ですか?」というような質問を投げている人はあまり見かけませんでした。それは鑑賞者のレベルが高く「ネガティブ・ケイパビリティ」状態で鑑賞出来ていると言えるのかもしれません。私も考えてみれば、よく分からないのだけれども何だか見ていると心地よく、吸い込まれるような世界観です。心地よいけれども、少し距離を取れば、微かに異常さが漂っていることにも気付けます。なぜ、すんなり受け入れてしまうのかについては、作陶に入り浸ることで現地の方から受け取った窯業の美しい釉薬の色であったり、梅津さんが今まで続けてきた美術界に対する批評的な活動と「民藝運動」が呼応して結実したととれる「美術史的読み方」がそうさせるのだと結論づけそうになりますが、それだけではない。もっと言語化が難しいもの、があるはず。

 

長々と説明してきて今更言うのも何ですが、今までこの記事で書かれてきたことは無視していただきたい。なぜならそれはある種「分からないものをすぐに言語化して分かったこと」にしてしまう行為になりかねないからです。梅津作品に漂っている「花粉」を感じるためには「分からないものを分からないままにしておく」状態で、よく「観察」することが必須だと思います。ある意味で梅津作品のアイコンになりつつある「花粉濾し器」が本展に出品されていないのは、他の多くの作品にじっくり注意を向けてほしいという思いもあるはずです。

 

 




 

梅津さんの作家活動の根底には「深い観察」があると思います。それは、前述の「優等生の蒙古斑」であったり、美術手帖の特集「絵画の見かた」の監修であったり、通常であれば思い至らないような、描画材が手に入って使用していることの過程に気付けるような部分などに裏付けることが出来ます。「深い観察」をしてきた作家の作品は「観察の集大成」であり、「観察」のプロ中のプロが「美しい」と思ったもの、そこから生み出された濃い抽出物です。

 

 

 

分からないまま受け止めることを経て、それでもあえて何か言語化するとしたら何になるのか。「ロマンチック」な要素はすごく感じます。ロマンの結晶が何種類か、宇宙船に乗って異様な太陽と歪な月に向かって放出されるのを待っている、それが本展の全体像です。

 

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それは生き物の内臓のような色と形をしていて、漂う美術の擬態の中身をぶちまけている。受粉には真っ赤に輝く太陽は不向きだ。真髄に迫ろうとする者の頭上には、吠えられ続けて穴の開いた月が浮かんだ。その穴の先に広大な宇宙が見える。行こう。行かねばならない。少なくともお前は、行くべきだ。

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(最後はポエムかよ! という批判、受け付けます)


梅津さんの作品に乗ったメッセージが、場所や時代を超えて緑色の太陽を見ている者に届く様子は想像に難くない。




 

台座の黄色の明度までこだわっている展覧会です。ぜひ、あるがままを見に足を運んでみてください。

 

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禅がわれわれに対して砂糖の甘さを味わうことを求める時に、それはただ砂糖をわれわれの口の中に入れるだけで、それ以上の言葉はいらない。

 

(『はじめての大拙 鈴木大拙 自然のままに生きていく 一〇八の言葉』第五章 より抜粋)

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展示風景画像:梅津庸一 個展「緑色の太陽とレンコン状の月」


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