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【おすすめ アート本】『はじめての大拙 鈴木大拙 自然のままに生きていく 一〇八の言葉』

 

はじめての大拙

鈴木大拙 自然のままに生きていく 一〇八の言葉

 

大熊玄 編

ディスカヴァー・トゥエンティワン

2019年

 


特定のアート作品について語らない、美術史も登場しない、でもアート本

 

この本を「おすすめ アート本」として紹介させていただきます。アート本の定義を仮に「アート作品を観て、自分なりの解釈をするための手引きとなってくれる本」とした時に、この本はまさにその役割を果たしてくれます。

  

 

 

 

Zenの伝導者、鈴木大拙

 

本書は、仏教学者である鈴木大拙の言葉に、はじめて触れる読み手のために編まれた本です。

 

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そもそも、鈴木大拙を知らない人もいらっしゃるでしょう。でも、べつにその人物を知らなくても、その言葉によって何かが伝わり、読んだ人に大切な何かが生まれることもあります。その何か・・の大切さに比べれば、誰が・・言ったのかはあまり重要ではありません。ですから、これまで大拙を知らなかったとしても、とくに問題はありません。

いや、むしろ、「誰が」を知らなかった読者のほうが、その「何か」が生まれるかもしれません。

 

(『はじめての大拙 鈴木大拙 自然のままに生きていく 一〇八の言葉』はじめに より抜粋)

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とあり、以下は完全に蛇足でしかないのですが、鈴木大拙の略歴を簡単に記させてください。

 

 

鈴木大拙は1870年生まれ、1966年没。東京帝国大学 (現・東京大学) 在学中に参禅。1897年に渡米、1909年に帰国後、学習院にて講師・教授、東京帝国大学にて講師を経て大谷大学教授となります。『イースタン・ブディスト』を創刊し、海外に向けて仏教や禅思想を広く紹介。1936年にはロンドンでの世界信仰会議に出席。1950年〜1958年まで再度米国に滞在しコロンビア大学等での仏教思想の講義などを通して米国上流社会に禅思想を広め、Zenブームの火付け役となります。海外では「D.T.Suzuki」の名のほうが馴染みがあるようです。1953年のエラノス会議にて心理学者カール・グスタフ・ユング、哲学者マルティン・ハイデッガーと対話をしたとされており、大拙の講義を聴講した人物には、現代音楽家ジョン・ケージ、作家J・D・サリンジャーなどが挙げられてます。伴侶であるビアトリス・アールスキン・レーンが信奉した神智学もまたヨーゼフ・ボイスやナムジュン・パイクにインスピレーションを与えました。他にも、生物学の南方熊楠、民藝運動の柳宗悦など、大拙は、国内外問わず、分野を問わず、現代に至るまで数々の表現者、学者に多大な影響を与えています。

 

 

 

 

難解と思われる概念をわかりやすい言葉にほぐす達人

 

前述のように紹介すると、大拙の言葉を編んで作られた本書はとても難しそう、という印象を持つかも知れません。禅思想、宗教学、哲学、、、。

 

アートを紐解く際、より明確な根拠をフランスやドイツの哲学に見出したオクトーバー派 (『October』はアメリカのマサチューセッツ工科大学出版局が出版する季刊美術理論誌。芸術批評の最前線を自負し、その著者は『オクトーバー』派と呼ばれる。) が、哲学書の翻訳という作業を経たことで、読み手を限定するような難解な言い回しを生み出し、その言い回し自体に権威が宿り、「アートを論じた文章 = 難解」になった現象を当てはめてしまいそうです。アートの解釈 ≒ 哲学知らないといけない ≒  難しい、東洋のアートの解釈 ≒ 東洋の哲学 ≒ 禅思想 ≒ 難しい、のように。

 

ですが、海外においても大きな支持を得た大拙は、難解と思われる禅思想をわかりやすい言葉にほぐす達人でありました。その門戸は開かれ、訪れた人たちは誰でも温かく迎え入れる、そんな文章です。

 

そして本書は大拙の言葉が読者に伝わるよう、読みやすい工夫がふんだんになされています。固有名詞や哲学用語がほとんど登場しない200文字以内の文章、現行表記やひらがなへの変更、字体やレイアウトの親しみやすいデザイン等もあって「難しそう」という印象は全くありません。しかし内容は奥深く、時に共感したり、感銘を受ける文章がある一方、中には「書かれている意味は分かる」が自分は「まだ理解していない」と感じるような文章もありました。本書にある大拙の言葉を借りれば

 

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禅の鍛錬法は真理がどんなものであろうと、身を持って体験することであり、知的作用や体系的な学説に訴えぬということである。

 

(『はじめての大拙 鈴木大拙 自然のままに生きていく 一〇八の言葉』第五章 より抜粋)

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禅がわれわれに対して砂糖の甘さを味わうことを求める時に、それはただ砂糖をわれわれの口の中に入れるだけで、それ以上の言葉はいらない。

 

(『はじめての大拙 鈴木大拙 自然のままに生きていく 一〇八の言葉』第五章 より抜粋)

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ということから、私自身がまだ体験していないこと、砂糖を口の中に入れたことがない状態であるのだろうと思います。本書に綴られている言葉には、生涯に渡り読み返したくなる深さがあります。

 

 

読みやすいのに、難しい問いに対する理解が深まる

 

本書を読み進めていると、例えばナム・ジュン・パイクの「Zen for Head」のパフォーマンス (1962年 西ドイツのヴィースバーデン市立美術館で開催のフルクサス国際現代音楽祭にて行ったパフォーマンス。墨の入ったバケツに頭ごと突っ込み、毛髪で紙の上に直線を引いた。) が何を表現しているかハッキリと分かったり、「何がアートで何がアートではないか」という難しい問いへの自分なりの答えを導くヒントに出会えます。

 

 

今 (2022年8月現在) 、ちょうど人類は新しいテクノロジーの「使い方」について、誰もが難しい問いにさらされている黎明期の渦中にいるのではないでしょうか。

 

例えば、アルゴリズムによる民主主義は可能なのか?

 

 

 

 

脱線:無意識データ民主主義について考えてみる

 

 

「無意識データ民主主義」、そのビジョンを見せてくれた『22世紀の民主主義 選挙はアルゴリズムになり、政治家はネコになる』(成田悠輔 著 SBクリエイティブ 2022年) を読んだのですが、著者本人もYouTube動画:文藝春秋digital 「日本の民主主義には絶望しかないのか?」成田悠輔と先崎彰容が“ネット社会”の未完の可能性を議論、にて言っているように (16:30 〜) この本の中ではアーキテクトに相当する人、具体的には、アルゴリズムによる民主主義をデザインし、実装していく「人間」が誰なのか、という議論を避けてしまっています。

 

 

「アルゴリズムの価値判断や推薦・選択がマズいときに介入して拒否することが人間の主な役割になる。(『22世紀の民主主義 選挙はアルゴリズムになり、政治家はネコになる』より抜粋)」というところの「人間」はどう選出するのか?

 

全ての人間の無意識から是非を問う、というのであれば「無意識」ほど怖いものはないわけで、『鬼切丸』などで知られる漫画家の楠桂さんの読み切り漫画『Whose? 』という作品を思い出させるのですが、これはどういう作品かというと、美術部に所属している主人公が、賞を取った他の部員が次々と犯人不明の事件 (記憶が曖昧ですが、目を潰されたり、骨を折られたりなどで絵が描けなくなっていたと思います) に巻き込まれるのを見ていくうちに、それは自分自身の「〇〇の目が潰れればいい」「△△の腕が折れればいい」という嫉妬に原因があると気づき、罪悪感から「自分なんて死んでしまえばいい」と思ってしまったことにより、最後は正体不明の何者かに殺されて終わる、というストーリーです。最後のコマは「俺はただ思っていただけ、、、思っていただけ」という文で締め括られていたと記憶しています。

 

この主人公が抱いたような嫉妬の思いに心当たりがない人間っているのでしょうか? 人間には一定の「建前」が必要です。

 

何かが原因でトリアージを迫られた時に「この人は世の役に立つ」「この人は死んでも問題がない」なんて無意識に思ったことが集計されて、結果「死んでもいい」と判断された人は素直に死ねるでしょうか? 晩年になって功績が認められた数々の偉人を思えば、誰が「この人は世の役に立つ」「立たない」と判断できるのでしょう? そもそも「役に立たなければ生きていてはいけない」という考えも疑問です。極端な例を論じているのは認めますが、アルゴリズムによる判断が極端かそうでないかをジャッジする「人間」も選出しなければなりません。

 

 

ここで、完全な平等というものは「人間」が手を加えた瞬間に不可能になるどころか、より不平等に拍車がかかるのではないか、という疑問が浮かびます。大拙の言葉のように、自然のようには人間は振る舞えないからです。

 

 

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こんな自然と名づくべきものが、人間以外にあって、人間性を帯びずに人間の心理を超越して、利害得失の考えも、善悪美醜の念もないということが、人間にとって、如何ばかり仕合なことであるとも考えられぬでない。

 

(『はじめての大拙 鈴木大拙 自然のままに生きていく 一〇八の言葉』第一章 より抜粋)

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自然・・はまたこの親しいものも、憎いものも、一様に取り扱う。怨親平等である。雨がふれば誰でも濡れる、日が出れば何でも照らされる。自然・・は区別をせぬ、えこひいき・・・をせぬ。この点では公平である。あるいは無頓着である。「人情」を容れぬ。

 人間はそうは行かぬ。選択をする。いろいろないいわけをして、何とかかとか差別をつける。それから不平をいう、そうしてその不平に耳をかす、説明をする。

 

(『はじめての大拙 鈴木大拙 自然のままに生きていく 一〇八の言葉』第一章 より抜粋)

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これは、私の一意見ですが、より万人に平等な世界を「人間」が叶えようともがけばもがくほど「不平等」「理不尽」になっていくのではないかという危惧があります。「正しいかも知れないけれど、ムカつく」なんてことは日常茶飯事に思われていて、たとえ口から出まかせでも自身に心地いいことを言ってくれる他人を支持してしまう、「えこひいき」してしまう弱さを克服することなど到底出来ないからです。

 

 

 

 

1966年より前に、これが言われていた!という衝撃

 

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なんでもない仕事、それが最も大切なのです。何か人の目を驚かす、というようなものでなくてよいのです。

 この節は、人々の目を引くようなことをやらぬと、立派でないように考える人もあります。あるいは、何でも異常なことでも申さぬと偉い人になれぬと思うのです。

 われわれの一生というものは、なにも目を驚かして、偉い者になろうとか、なったとかいうところにあるのでなくして、日々の仕事をやることが一番です。

 

(『はじめての大拙 鈴木大拙 自然のままに生きていく 一〇八の言葉』第四章 より抜粋)

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大拙の没年は1966年。この言葉の原著『東洋の心』の出版年は1965年です。パーソナルコンピューターという言葉はかろうじて1962年のニューヨーク・タイムズ誌に登場していたようですが、もちろん一家に一台持てるような時代ではありませんし、SNSはもちろん存在しておりません。ですが、この言葉が、まるで現代の「バズる」「炎上商法」や、フォロワー数「いいね」の数を重視する社会を憂慮しているように読めるのはなぜでしょう?

 

歴史に学ばない。歴史を繰り返す。人類は今まで「何も考えずに生きてきた」わけでは決してなく、同じようなことをぐるぐると繰り返しているような存在なのです。先人の経験、智慧を軽んじてはならん、と思います。

 

 

 

 

AIは道具に過ぎない?

 

2022年の3月に書いた記事:【AI と アート】AIが絵を描くことの限界が見えた? 適当に卵とバンド名でやってみた。の結論を再掲します。

 

 

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結局は人の「表現したい」という欲がなければ生まれないもの。AIが描いたというよりは、AIを道具にして人間が描いた絵、という域を出ないのではないでしょうか?

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この結論から、私は意見を変えていないのですが、AIはその後も成長を続け、2022年8月現在もSNS上でAIに描かせた絵が話題になっています。

 

何がアートで何がアートではないか?

AIが描いた絵を、どう捉えたらよいのか?

 

とても難解な問いですが、この問いを解いていくための糸口になる言葉を大拙は与えてくれました。

 

 

 

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理論化セオリゼーションということは工場を建てるときや、各種工業製品を製造するときなどには、結構なことであるかも知れぬが、人間の魂の直接の表現である芸術品を創ったり、そういう技術に熟達したりする場合、また正しく生きる術を得んとする場合には、そういう訳にはゆかぬ。

 

(『はじめての大拙 鈴木大拙 自然のままに生きていく 一〇八の言葉』第五章 より抜粋)

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芸術品とは、人間の魂の直接の表現である、、、この言葉が私には響きました。 

 

 

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機械にたよると、その働きの成績にのみ心をとらわれる。早く効があれとか、多くの仕事ができるようにとか、自分の力はできるだけ節約したいとか、また経済的には、少しの資本で多大の利益を占めたいなどいうことになる。

 このようなわけで、機心〔機械の心〕なるものは、われらの注意を絶えず外に駆らしめて、相関的な利害得失に夢中ならしむるのである。

 

(『はじめての大拙 鈴木大拙 自然のままに生きていく 一〇八の言葉』第二章 より抜粋)

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〔機心では、〕力はできるだけ少なくして、功はできるだけ多かれと働く。時によると、この働くことさえもしないで、ひたすらに、効果のみあがれかし、と考える。

 機心は、人をだまかすことに成功すればこの上なしとさえひそかに喜ぶことになる。

 危険千万な心得であるといわなくてはならぬ。

 ところが、今日の世界はこの危険千万なことが、いたるところに動き出している。騒がしい世の中だ。

 

(『はじめての大拙 鈴木大拙 自然のままに生きていく 一〇八の言葉』第二章 より抜粋)

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AIは「苦しむ」ことがない、と私は思っています。人間がいくらそこに心を見出そうとしても、データを取り、与えられた分岐を繰り返し、プログラムされた通りに動いている、というのが実態でしょう。元のデータに人間の人生が反映されているから、すごいものを創造しているように思えるだけで、人間の魂の表現では決してない。

 

この、人間の人生から生まれた、ということが重要なのだと思います。それが、芸術作品の存在意義「なぜ、人は作品を創るのか」の答えにもなっている。コンセプチュアルなものでも、そのコンセプトに辿り着くまでの作家の人生が背景にあります。複数のクリエイターからなるコレクティブも、その出会いは各々の人生の中で生まれたものです。そこに至るまでに、悩みや苦しみもあると思います。

 

創造の苦しさから逃れることは「人間」であれば不可能だし、苦しむことが出来ないAIに人生を代弁してもらうことは不可能、というのが私の意見です。

 

もうすでに表現したいビジョンや自分の作品というものを理解している作家が、アシスタントのようにAIを用いたり、インスピレーションを拝借することまでは制限出来ないですが、AIはそういう道具でしかない、と区別しておくことが重要だと思います。

 

 

絶えず新しいものが投稿され、誰かが凄いものを作り、注目度が数によって明らかにされる世の中において、無意識のうちに焦りを感じ、今までに見たことのない「人の目を驚かす」ものを求め、効率を重視しているのかも知れません。しかしそれは、自分の人生がインスタントであると言っているのと同じです。大拙が語る言葉にすべて繋がっていくように思いました。




読むことで、砂糖を口の中に入れてみませんか?

 

最後に、これは、私というフィルターを通して大拙の言葉を抜粋した記事に過ぎない、ということを記しておきたいと思います。

 

禅には「不立文字ふりゅうもんじ」という言葉があるそうです。言葉を重用しないという意味の言葉・・だそうです。編者の大熊玄さんが本書の「おわりに」にて、この言葉を、自己主張と自己否定をはらんだ魅力のある言葉として紹介していることがたいへん重要であると思います。

 

 

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わたしはこれまで、大拙の文章を読んでいて、「なんだかわけのわからないところが神秘的でいい」などと思ったことは、一度もありません。大拙は、けっして神秘的な表現でウヤムヤにごまかすような文章を書いていません。

 

(『はじめての大拙 鈴木大拙 自然のままに生きていく 一〇八の言葉』おわりに より抜粋)

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何だか抜粋ばかりになってしまったことをお詫び申し上げますが、本書はここでご紹介した言葉以外にも、深く考えざるを得ない言葉に溢れています。本書のすばらしいところは、大拙が言葉では伝えきれないと理解しながら伝えようとしたことが、どうやったらより伝わりやすいか、さらに工夫されて編まれているということです。本書がきっかけとなって、より深く大拙を知りたいと思った方が辿れるように、原著タイトルと該当ページが記されていることにも、編者の大熊さんの思いが表れていると感じました。

 

 

 

同じ本を読んで、同じ言葉から全く違う結論を導く読み手もいると思います。その人の人生、生きてきた道から、それぞれの仕事がある、仕事とは「こうすべきだと思うことを、成績があがろうかあがるまいが努力するよりしかたがない。 (『はじめての大拙 鈴木大拙 自然のままに生きていく 一〇八の言葉』第四章 より抜粋)」という、使命のようなものです。

 

 

体験によってでしか得られないものがあります。

本書を読むという体験を、ぜひおすすめしたいと思います。


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