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感想 フカミエリ 個展「fictional reality.」

 

フカミエリ 個展「fictional reality.」

 

会 期:2022年5月5日(木) - 2022年5月22日(日)

時 間:木金 13時-19時  土日祝 12時-18時

休 廊:月火水

場 所:biscuit gallery 3階

展覧会URL:

https://biscuitgallery.com/fictionalreality/

 


 

フカミエリさんが描く人物の顔には個人的に非常に興味がありました。素人の自分の話を持ち出してたいへん申し訳ないのですが、私には人物の目を2本の「棒」で表現する癖があり、ちょっとだけ、フカミさんが描く記号的な人物の顔に似ていると感じていたからです。

 

私の場合は大学卒業後に通っていたセツ・モードセミナー (2017年廃校) で基本として行われていたクロッキーという人物速写にて、人物を描き続けているうちに「顔ってもっと簡略化しても表せるんじゃない?」と思い、目の瞳だけぐりぐりと描き始め、最終的には棒になったという経緯です。絵をあまり描かない知り合いなどからは「簡単に真似できそう」と思われがちで、真似して描いた人もいましたが、これ、けっこう「似ない」んですよ。単純過ぎるので。意外に描き手の線の影響が強くでる。強い線とか弱い線とか、棒と棒の間隔で人相が全然変わったり。試しに真似していただくと分かると思います。

 

なので、私の落書き顔とフカミさんの描く顔が、よく観ると全然違うのになぜかちょっと似てる気がした際、他人じゃない何かを感じてやや戦慄しました。自分から生まれ出る者のドッペルゲンガーに出会った、みたいな気持ちです。

 

 

「いのちのしるし」(部分拡大)

 

筆者による自画像 (2017)

ここに並べていいのか? ごめんなさい、具体的に見て欲しかったので。

似てないよ! という異論も認めます。


 

以上の理由から非常に気になっていた作家さんなので是非一度、個展に伺いたかったのですが、機会を逃し続けてしまい、本展でやっと叶いました。

 

本展「fictional reality.」では、描かれた人物の顔に変化が見られるというのもあり、フカミさんの作品の魅力は人物描写に留まるものでは決してない、ということを強く感じました。顔が似てるとか思ってしまってすみません。「芸能人にちょっと似てない?」と勝手に思っていて偶然本人に遭遇したら「全然レベチでした、ごめんなさい」という状況でしょうか。

 

「消えかかるぬくもり。」

同時開催されている石井海音さんの個展の作品「My ghost floating」と同じ位置に描かれたチューリップが気になります。石井さんは ghost を指差していたけど、こちらでは消えかかるものを感じようとしている風に見える。

 

左:「discover」 右:「人差し指のゆくえ Ⅰ」

 

「discover」

 

「人差し指のゆくえ Ⅰ」

チューリップ、再び。



「人差し指のゆくえ Ⅱ」


「人差し指のゆくえ Ⅲ」


人差し指が指し示す先は、おそらくですが、描く対象が纏っている霊体なのではないかと。チューリップの霊体、頭の中の霊体、蝶々の霊体。「印象」というより具体的な「形」を伴っている。フカミさんにはその「形」が見えているのかな。

 

「眩しい景色」

 

「2人は一緒」


顔の表現、だいぶ違いますね。「眩しい景色」の人物の奥に見える赤い車のようなものが、「2人は一緒」では形状がシンプルに削ぎ落とされて青と赤と境界の色面になったのかも、と思いました。とすると、「眩しい景色」で人物が抱きかかえている猫のようなものは、「2人は一緒」では猿のような生き物になって人物に抱きついている。恋人などの親しい他者と自分の関係が、状況によって様々に変わるようなことのようにも読み取れます。

 

左:「ひみつの彼方。」 右:「いのちのしるし」

 

「ひみつの彼方。」 

「。」がついているタイトルとそうでないものの違いは何だろう?

 

「いのちのしるし」

何となくですが、シャガールっぽい。青い画面とか、左上のキスしてる生き物とか。


 

「異変」

異変があった。どこかの瞬間で。顔の表現の変化に関係があるのでしょうか。

バスルームとフクロウの組み合わせは、東慎也さんの「Watching owl」という作品を思い出させます。あちらはフクロウを飼っているアートコレクターさんのお宅での実際のエピソードが元になったと聞き及んでおります。ひょっとして同じお宅が舞台だったら面白いですね (想像の域を出ませんが) 。

 

フカミさんが描くのは、自身が受け取った現実 = reality です。ブレイク前夜 ♯283 のインタビューの中で、描いているものについて「その日にあったこと全てを詰め込んだようなスーパーリアリティ」と表現されています。そして、それが具象ではなく抽象的な表現であることについては、具象で定義づけるのではなく観る人がその人なりのリアリティを新たに重ねられることを良しとされていて「哲学みたいな感じで自分の絵が作品としてみんなの中で存在できたらいいなと思ってます。」と発言されています。

 

なるほど、哲学か。

 

本展の中で、一番好きだなと思った作品は次の作品です。

 

「夜の匂いで育つ大きな木」

 

この絵は全体的に緑色で、クリスマスツリーのような木の記号的表現があって、星 (五芒星) の記号のようなものもあって、手があって、顔のようなものが2つ、いや、右側ののっぺらぼうのような塊を合わせて、3つあるようにも見え、、、もう完全に意味不明 (失礼) なのですが、不思議と見た瞬間「分かる!」となりました。何が分かったんだ? ということですが、描かれているものの位置関係や色彩が、言語化できない理の中で、ぴったり、これだ! というところにすべて収まっている感じが分かりました。色彩構成? いやいや、勢いのある筆の跡や線の形状を見るに、単純に色彩構成のなせる業とは言えない。

 


「夜の匂いで育つ大きな木」(部分拡大)

一番「分かる!」って唸ったのがこの2つの顔をまたぐ髪の表現。なんでだろう? 今の私には言語化できないんですが、めちゃおかしいのになんか納得しませんか? これ。


「夜の匂いで育つ大きな木」(部分拡大)

一発描きと思われる勢いのある筆跡。濃淡も含めて心地よいです。高度なものを描いている、としか。


 

石井海音さん個展「warp」のレビューに続き、ここでもまた、biscuit galleryさんのサイトにある岡本秀さんによるテキストを引用させていただきます。

 

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こうした主観主義的な絵画形式には、批判も予想される。

ハル・フォスターは、内面的な表現を重視する人々が、特権的に扱う「無意識」の考え方を疑問視する。(中略) フォスターによれば、こうした作家が扱う直観的な表現は、既存の美術史によって完全にコード化された類型の一つでしかない。

(中略)

実際のところ、フカミの作品は、どこかで見たようなものに映ってしまう危うさもある。

(中略)

そうした類似性が、たとえば愛や影響の次元で映るか、世界観として劣ったものになってしまうかは、フカミ自身の作品の強度による。一方で、イメージを生のまま定着させる即時性は、どうしても絵を記号的に荒く留めてしまう可能性もある。先のテキストで石井が述べているように、記号化は単調化にも通じている。そこで、技術的着地点をどこに持っていくかは難しい問題なのではないか。これは《思い出したら》(2022)に出てくるネコが、ぱっと見て、ネコと分かりづらかったり、花の活き活きとしたそよぎが、いまいち伝わらない、という単純な話である。フカミのリアリティが十分表現出来ているから良いのか、それとも万人にわかるように描けた方が良いのかはわからない。しかし、エドヴァルド・ムンクでも、シャガールでも、ミリアム・カーンでも、ちゃんといい塩梅で描くような気がする。

 

biscuit gallery 岡本秀(Shu Okamoto)によるテキスト より抜粋 (中略)は筆者 )

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フカミさんの作品はよく、ムンクのような表現主義に分類される作家に喩えられることが多いです。表現主義とは、英語でExpressionism、作家の心の内に見たものを表に出す、という意味があります。

 

余談になりますが、対する「印象主義」はImpressionism、外部に実際に存在する物事から印象深いある特徴を強調する、というような意味合いがあります。「表現」「印象」という日本語だとちょっと意味が曖昧になりますが、内にあるものを外に=「Ex」 出す=「press」という「表現する」と、ある部分を内に =「In」押しつけ =「press」て「印象づける」とは、両者真逆のベクトルなんですねー。冒頭で恥も外聞もなく載せた私の自画像は、現実の人間の印象を誇張して表したので「印象主義」です。

 

表現主義

 

印象主義

モネに怒られろ。


 

話を表現主義に戻します。心に見えた風景なので、突き詰めたら何でもあり、になりそうなんですが、岡本秀さんのテキストでも挙がったムンクを例にすると、「叫び」はタイトルや、中央に描かれた人物が耳を押さえる様子からも、作家が表現したいものが分かりやすく伝わってくると思います。人物の体や背景が歪んでいることに対して「デッサンが狂っている」とか「現実的じゃない」ということよりも、その歪みが「表現したいこと」に対して忠実で効果的である、と思えるわけです。そういう意味でもムンクの「叫び」は分かりやすい。

 

フカミさんは前述のブレイク前夜でのインタビューにもあったように、1つの物事ではなく複数の物事を、鑑賞者それぞれが持つ哲学にまで解釈を許し、「表現」しています。けっこう高度です。言語化の難度が上がりまくりです。言語化したら小説になっちゃうんじゃないだろうか。そして描かれたものが「何でもあり」ではないことも、直感的に分かります。元にはしっかりとフカミさんが体感したリアリティが存在するということの証左でしょう。「何でもあり = 全部虚構」では描けないだろうなと思わせる何かの存在を感じる。それが、私の「分かる!」です。

 

展覧会タイトル「fictional reality.」もよく作品を表していて、訳したら「虚構の現実。」「架空の現実。」みたいになるんですが、では「虚構」なのか「現実」なのかどっちなの!? と、意味を探ろうとすると迷宮入りです。万人が納得する「ザ・正解」がない言葉です。でもイメージが全く湧かない言葉か、といったらそうではない。それぞれが思う「虚構の現実。」がある。

 

あと「fictional reality.」の、このピリオドですよね、、、。ピリオドは、通常は文の終わりに打ちます。絶対に意味があると思うんだよな、、、。顔の表現に変化が起きていることから、本展で一旦区切る、ということか?

 

私がYouTubeだけを観てエアプ ( = エアプレイ = ゲームをプレイしていないこと、まるでプレイしているかのように発言すること) をしているお気に入りのゲームに、フロム・ソフトウェアのソウルシリーズがあるんですが、このゲームシリーズでは、世界観を把握するための重要な物事についてでさえ、アイテムの説明などで公式から匂わされているテキスト (フレーバーテキスト) はあっても、明確な答えが発表されないのです。これがめちゃくちゃ面白い。「フロム脳」という言葉が生み出されてしまうほどに、考察の虜になってしまうんですね。アートの世界や純文学の世界にあった「人それぞれの解釈」というものをゲームの世界に意図的に持ち込んでいる。

 

「これは何を表しているんですか?」と作家に訊くのはとても野暮なことと個人的には思っています (いや、訊く時もあるけど) 。作品から感じられることが全てだろう、と思うわけです。フカミさんの作品は、時間や場所を変えて対峙した時、また新たな解釈が生まれるのではないかという予感に満ちています。年齢を重ね、人生経験を重ねた後に読むとまた違った感想を持つ純文学的な作品と言えるかもしれません。観た人による考察は、断定的なものであっても聞いてみたいところですが、ご本人 (公式) にはずっと答えを出さないでいて欲しい、、、なんて。匂わせテキストは欲しいんですけどね。

 

分からないほうが面白い、ということもある。自分は何を感じるか、ぜひ足を運んでみてください。


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