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感想 山本れいら 個展「Who said it was simple?」

 

山本れいら 個展「Who said it was simple?」

 

会 期:2022年4月15日(金) - 2022年5月8日(日)

時 間:13時-20時

休 廊:火水木

場 所:Ritsuki Fujisaki Gallery

展覧会URL:https://ritsukifujisakigallery.com/blog/2022/04/03/who-said-it-was-simple-by-yamamoto-layla-from-20220415-to-20220508/


 

山本れいらさんは1995年生まれ。10代より渡米し、全米美術大学ランキングで1-2位を争う名門美術大学であるシカゴ美術館附属美術大学で学ばれました。現在は日本を拠点に活動されており、日本で感じる米国との文化間のギャップを起点に作品制作をされています。

 

本展「Who said it was simple?」では、日本で1990年代に放映され人気を博したアニメーション『美少女戦士セーラームーン』の主人公:月野うさぎと、その娘:ちびうさというキャラクターを介して、フェミニズムの新しい視点を提示するものとして、「女性」と一括りにされてしまうことの問題や、少女や女性に向けられるまなざし、に切り込んでいます。

 

本展の作品は3つのシリーズに分かれています。「Who said it was simple?」シリーズ、「Flawless」シリーズ、「I hate flowers」シリーズです。

 

 


濃いめのピンク〜赤系の色味で統一された画面の中央に、前述の月野うさぎとちびうさを思わせるキャラクターを配し、奥に特定されない複数の女性の顔のアップが描かれている「Who said it was simple?」シリーズは、立場や状況が異なる女性同士の理解と連帯を訴えています。それぞれの女性が個で抱える問題が「女性」という大きな括りに集約されることで見えなくなってしまうことへの警鐘の意味も含まれています。

 

女性同士の相互理解や連帯に関して個人的に思うことは、未婚か既婚か、子ありか子なしか、というざっくりした分類でさえ、女性を取り巻く環境、特に就業環境の差は大きく、その度合いは男性のそれとは大きく異なる、というのがあります。男性が未婚か既婚か、子ありか子なしか、で受ける社会的な就業環境の差と、女性の場合の差です。夫の扶養に入る入らない、扶養に入った場合の配偶者控除という、世帯に対しての税の控除は、まるで被扶養者がフルタイムで勤務することへの金銭的壁を作っている制度にも見えます。夫が妻の扶養に入ったって良いのですが、出産、育児で長期休暇をとった場合、元のポジションに戻れない、報酬が減るなどの現実があることで、自然と女性のほうがキャリアを諦めることが多く被扶養者になる場合が多い。そういう全体としての問題について変えていかなければならない段階にきているのですが、女性の個別の状況、未婚か既婚か、子ありか子なしか、により、女性同士が連帯しません。もっと具体的に言ってしまいますが「資金力がある男性と結婚、子孫を授かることができたら勝ち組」というような考えが日本の一部の女性には未だにあり、そうではない女性に対して心理的優位を感じている節すらあります。女性の敵は女性、と言われてしまう所以です。そういう「勝ち組 (?)」な女性であっても、やっぱり社会に対して「あれ?」と思うような不公平感を感じているのでフェミニズム問題が常に浮上してくるわけです。「勝ち組」なんて、都合のいい幻想を与えられているだけだ! 生殺与奪の権を他人に握らせるな! 

 

 

「Who said it was simple? 1」

書かれている文字は

WE MUST ALLOW EACH OTHER OUR DIFFERENCES

AT THE SAME TIME AS WE RECOGNIZE OUR SAMENESS

フェミニズムにおける「白人中心性」に焦点を当てた詩人:オードリー・ロード (Audre Lorde) の言葉から引用されているようです。

 

「Who said it was simple? 2」

YOU DO NOT HAVE TO BE ME

IN ORDER FOR US TO FIGHT ALONGSIDE EACH OTHER


 

ここに描かれている『セーラームーン』のキャラクター、月野うさぎ、と、ちびうさ、は母娘の関係なんですよね。女性問題の根源にある母娘間のギャップは女性同士の連帯を阻む大きな要因の一つです。女性の社会進出の度合いや置かれている環境はこの数十年で全く異なるものとなりました。世代間の相互理解が進んでいないことへの問題意識も表現されていると思います。

 

また、画面全体から感じられる、濃いめのピンク〜赤系の色味にも山本さんの狙いがあるのではないでしょうか。ピンクは女性らしい優しい色のイメージだったのですが、この毒々しい感じはけっこう気持ち悪い。内臓っぽい。赤の色味も何となく生理の経血を思わせるというか。色の印象もあって、女性に性的な感情を持たない女性の私が抱いた感想は、この顔の表現に嫌悪感を感じる、というものです。アニメ顔の方も、そうでない表現の方も、です。女同士も接近するとむせかえるように「うへ」ってなるんですよ。そういうものだと思いますが、一例として、女性が共通に持つ身体のハンディキャップ (非力さ、生理、妊娠、出産、産後、更年期など) を起点とした不利な社会的ポジションに対しての現状の問題を考えても、女性同士が連帯するのは必須なわけです。嫌悪感を乗り越えて、相互に理解しよう、連帯しよう、ということの難しさ、すんなり行かなさが、ここに描かれている。私と貴女は違うよね、という前提がある上で連帯することの重要性。その訴えが、生々しい画面から切実さを持って感じ取れました。

 


「Who said it was simple? 1」(部分拡大)


「Who said it was simple? 2」(部分拡大)


 

 

 

「Flawless」シリーズは、バーバラ・クルーガー (Barbara Kruger) の作品の2分割された構図を用いて、日本の広告などに見られる笑顔の女性と、怒りや悲しみの表情を浮かべるアニメの顔が並べられています。「Flawless」はビヨンセの曲のタイトルから取られており、その曲の中では、ナイジェリアの作家チママンダ・ンゴズィ・アディーチェさんのスピーチが引用されています。ビヨンセがフェミニズムについて調べていたところ、アディーチェさんのスピーチに出会い、共感して引用したとのこと。山本さんの作品に書かれている言葉もそのスピーチからの引用です。

 

「Flawless 1」

WE TEACH GIRLS

TO SEE EACH OTHERS AS COMPETITORS

 

女の子は、お互いを競争相手として見るように教えられています ( アディーチェさんのスピーチによると「仕事や成果のためではなく、男性の注目を集めるための競争相手」という限定がついているんです、、、。文字にすると恐怖しかないですが、現実ですね )。

 

「Flawless 2」

WE TEACH GIRLS

COMPROMISE IS WHAT WOMEN DO

 

女の子は、妥協は女のほうがすることだと教えられています。


 

「Flawless 3」

WE TEACH GIRLS

NOT TO THREATEN OR EMASCULATE MEN

 

女の子は、男性を脅かしたり怯ませたりしないように教えられています。

 

「Flawless 4」

WE TEACH GIRLS

TO MAKE THEMSELVES SMALLER

 

女の子は、自分の存在を小さくするように教えられています。


 

引用元からも分かる通り、これらの言葉は日本の社会に対しての告発に留まるものではないわけです。世界の話です、、、うう、どこも同じなんだな。国籍も人種も超えて、女性の連帯の必要性が感じられる、、、。

 

会場にあるクルーガーの作品集。


加えて、この「Flawless」シリーズからは、女性の競争相手として、実在しないアニメの登場人物があてがわれているという理不尽さも感じました。アニメの画面の部分はセル画のように凹凸がなく滑らかな表面なんですが、広告から引用されたほうの女性の画面は、毛穴のようなボツボツの質感があるんです。アニメ顔のほうの、徹底して筆跡を感じさせない画面作りからみて、間違いなく作者の山本さんが意識して作り込んだ凹凸であると思います。

 

「Flawless 1」(部分拡大)

 

「Flawless 3」(部分拡大)


 

表面的にはいつでも笑顔を作って、心で泣いて、ということだったり、笑顔を強いる広告を敵と見做す女性戦士の構図という見方が正しいのかもしれませんが、広告をサンプリングしたという、実際の女性に近いほうの表情は媚びが感じられる満面の笑みなのに、アニメのほうはショックを受けていたり睨んでたり泣いていたり、で実際にこんな表情したら好かれない (と思われる) 顔になっているわけです。でも、目の大きさや肌の凹凸のなさ、シワのなさ、鼻の小ささ、などで、アニメの顔のほうが可愛く見える。ひえぇー! 勘弁してくださいー。無理ですってー。アニメの女性を基準にするなよー。実際の肌は凹凸もあれば皮脂ってものがあって、顔の比率もあって、どんな美人でもアニメの可愛さには敵わないですよー。スタイルのいい男性が良いからって『キャプテン翼』の頭身を理想にしてしまったら、対応できるの大谷翔平選手くらいしかいないじゃないですかー。さすがに、アニメの女性と実際に理想とする女性は別だよね? 

 

 

 

最後に紹介する「I hate flowers」シリーズでは「少女向けアニメが受ける男性からの性的なまなざし」が取り上げられています。もう一度問う。さすがに、アニメの女性と実際に理想とする女性は別だよね? 

 

「I hate flowers」とはジョージア・オキーフ (Georgia O’Keeffe) の言葉だそうです。花の作品のシリーズを描いたオキーフが花を憎むようになった経緯に、その作品群が女性器のメタファーであると評されたことで商業的成功を得たという背景があります。本展では、オキーフの花シリーズを彷彿とさせる画面に重なるように、性的な視線に晒される機会が多くなった少女向けアニメの顔、が描かれてます。

 

「I hate flowers 2」

 

「I hate flowers 3」


 

「I hate flowers 5」

 

「I hate flowers 1」


 

「I hate flowers 4」

 

「I hate flowers 6」


 

会場にはオキーフの本もありました。


女性器と言われたらそうとしか見えなくなってしまう、、、。しかし、山本さんの作品のようにアニメ画と合わせて描かれると、そう見られたのが滑稽というか、そう見る側のほうに異常さや気持ち悪さを感じるから不思議です。

 

このシリーズからは、時に作者の意図に反して社会に利用される作品や、歴史的な文脈に沿わせることで評価される作品 (オキーフの場合はフェミニズムの潮流) という、アート作品の評価の問題、商業的価値を高めるために後付けされる文脈という問題も想起させます。

 

作品は作家の手を離れたら解釈は自由であるとは思いつつ、オキーフという一個人の思いはどうだったかということを踏まえて、2022年に山本さんが作品として発表することで、フェミニズムが持つ問題の本質が浮き彫りになるという現象が起きています。主体は誰か。マイノリティの訴えの主体はマイノリティ自身であり、マジョリティ側が何かを定義することは、基本的にできないはずではないか。感想を自由に書いている私が言うのもなんですが、作品の解釈も、作者が違う、嫌だ、というのなら、その事実に関しては認めるべきではなかろうか。それがなされずに、同性である女性からも、男性的な、マジョリティに都合の良い解釈がなされ、社会的に広まったことに問題の根深さがあります。

 

 

本展からは、けっこう色々な問題を感じとってしまったのですが、一貫しているのは、フェミニズムにおいては主体であるはずの女性が、連帯できておらず、時に対立までしてしまう現状への問題提起、フェミニズムの主体を女性に戻すことへの重要さが訴えられていると思います。そんな結論づけから、女性にこそ鑑賞してほしい展示と思いました。

 

 

 

ぜひ、足を運んでみてください。

 

 

 

 

展示風景画像:山本れいら 個展「Who said it was simple?」