TAV Viewing Show「REVERSI」
会 期:2026年5月8日(金) - 5月30日(土)
時 間:13:00 - 19:00
休 廊:日・月
場 所:TAV GALLERY
「リバーシ」って何だっけ?と思い、ついググってしまいました。オセロの原型とされるボードゲームのことでした。
良きところに一つ、ポンと白い石だか黒い石だかを置くと、こう、、、ずらーーーーーっとひっくり返る、あのボードゲームです。
本展「REVERSI」は、齋藤帆奈、鈴木操、トモトシ、林千歩、渡辺志桜里の5名の、過去作品と近年の作品が並べられています。
展覧会のページには、『変身』で知られるフランツ・カフカが世界に与えた影響について述べられています。カフカの登場により、「カフカ的」という言葉とともにその作品の世界観が認識されることで、実はカフカ以前にも存在していた「カフカ的」なものが再認識されるというものです。つまりカフカは、それ以降の未来にだけでなく、過去にも影響を与えたことになります。
オセロをこう、一つ、ポンと置くと、ずらーーーーーっとひっくり返る、、、
5名の作家の最近の作品と過去の作品を観ることで、彼らが過去に現したものの中に違う補助線が引かれるのか。
それぞれの作家の作品に現れている問題意識には惹かれるものがあります。10年以上の月日が経って別の作品を制作しても、それらから滲み出る芯のようなものが不変であることに、ぐっと心を掴まれました。作家はなぜ作品を作るのか、ということの一つのアンサーであると思います。
本記事は、各作家の作品比較を簡単に記しつつ、最後に、今現在世界で起きていることを受けて作られている鈴木操の作品について述べたいと思います。
トモトシの2つの映像作品は2016年と2026年のものです(映像はぜひ現地で鑑賞ください)。
フリマサイトでコンビニの制服を購入し、勝手にヘルプ要員としてコンビニを訪れ働く、という2016年の作品と、普段着でスーパーの入り口に立ち、訪れた人に臨時休業になったことを伝え続ける2026年の作品です。
2026年の、臨時休業と伝えて来客を帰らせる作品では、堂々とした言動に対して疑いを持たない人々という、平時の人間の脆弱性が浮き彫りになっていました。翻って、2016年のコンビニの制服を着た状態でヘルプ要員として働くという作品は、制服の権威性がテーマのように感じますが、ここでもやはり「制服を着ていたら正規の従業員だと信じてしまう」という、受け取る側の脆弱性も浮き彫りにされてます。
渡辺志桜里の作品は、穴や空洞を注視させます。
2024年の作品は、外来魚ボックスという特殊なボックスに遺棄されたブルーギルの、その形の空洞を見ることができます。特定外来生物は生きたままの移動が法律で制限されているため、このような透明樹脂で固め、中の魚の肉をバクテリアに分解させ肥料とする方法が存在するそうです。
ハンドアウトによれば、実はブルーギルは戦後の人口増加を考慮しタンパク源として、1960年にシカゴ市長から現上皇に送られたものだといいます。2005年には特定外来生物に指定されてしまうのですから、この外来魚ボックスの空洞は、死と再生そのものの形でありながら、生かされるものとそうでないものの移ろいという問題をも意識させるといえるでしょう。
一方、2020年の作品は、鏡のように反射する真っ黒な楕円が特徴的です。
これは、日本初の肖像入り紙幣である「神功皇后札」の肖像部分を真っ黒に塗りつぶしたものです。この楕円はアニッシュ・カプーアの《世界の起源》の空洞の形を想起させます。カプーアの作品の前にはギュスターヴ・クールベの《世界の起源》、つまり女性器を大写しにした絵があります。女性の肖像を黒く塗りつぶした本作品は、生命誕生の大元である起源と、女性が負ってきた穢れの概念などが読み取れますが、先ほどのブルーギルの空洞を思い起こすと、より生々しく、身分の高低や貧富の差などで選別される人類の起源、本来ならば容易に線引きなどできないはずのものを選別する暗い穴のようにも感じられてきます。
林千歩の2013年と2026年の映像作品は、構図がほぼ同じなのでかえってその微妙な差に意識が向かいます。
青いレオタードの2013年のほうは、少しやわらかくセクシーでユーモアもある印象で、白いレオタードの2026年作品は時に人を責めているようなセリフをいうため、強くて怖い印象があります。ハンドアウトを見れば、やわらかい印象を持った2013年の作品は実際には「制作当時のトラウマ的状況下で撮影され」ていることがわかり、他人が受け取ることのできる他者の印象の限界に思いを馳せたりしました。改めて、2026年作品の白レオタードのほうが生き生きとしているといえばそうかもしれません。
齋藤帆奈の作品は、粘菌が顔料を食べて移動して排泄した跡をみせる作品と、生きている粘菌により変化を続ける作品とがあります。
次の2つの作品は粘菌の跡の作品です。
そしてこちら👇が生きている粘菌の作品。
過去(粘菌の跡)をみることで、今現在も変化している生きている粘菌の作品の未来を予測してしまう自分に気がつきました。過去が未来にみえる。しかし、生きている粘菌が予測したように画面を完成させるとも限りません。予測とはちがった未来をみた時には、また過去の作品の見方も変わってくるのでしょう。この部分は過去のほうが好きだなとか、粘菌の運動量が多かったんだな、とか。過去と未来が不可分に関係していることを教えてくれています。本展の趣旨が思い起こされます。
最後に鈴木操の作品について述べたいと思います。2026年の鈴木の作品群は、現在進行形で劇的に変化している世界情勢を受けての、作家の思いや考えが表現されています。ウクライナ戦争、イスラエルによる暴力や虐殺、ホルムズ海峡の封鎖といった問題について、自身の感じたことを作品に昇華していること、個人的に推したいです。
《ARIELGUCCI (I'm not letting this one go)》
洗練された未来的なファッションに身を包む一対の男女の肖像。彼らの手には洗剤の「アリエール」が握られています。こういう、ハイファッションと日用品の落差をみせる画面は珍しいわけではないですが、この作品の文脈を読めばこの表現が必然であったことがわかります。
以下、ハンドアウトより全文引用します。
『ARIELGUCCI (I'm not letting this one go)』は、イスラエル国家による逸脱した暴力やパレスチナ人虐殺、ホルムズ海峡封鎖といった現在の戦争状況を背景に、作家が抱いているキリスト教文化圏への不信感を、GUCCIのバッグPRイメージを洗濯洗剤アリエールのPRイメージへ置き換えることで表現している。2026年秋冬コレクションよりGUCCIのクリエイティブ・ディレクターに就任したDemnaのデビューコレクション「Gucci Primavera」では、ルネサンスへの回帰を掲げ、ボッティチェリの《プリマヴェーラ》を参照しながら新古典主義的な美学が打ち出された。他方で、アメリカの防衛テック企業であるPalantir Technologiesは、自社カンファレンス「AIPCon」において、抽象表現主義や新古典主義的な美学を転用したヴィジュアルを使用している。ここでは、本来崇高性や精神性を担っていたはずの美学が、戦争技術や軍事的オペレーションと結びつきながら再利用されている。作品タイトルの一部である「ARIEL(アリエル)」とは、ヘブライ語で「神の獅子」あるいは「神の祭壇」を意味する言葉であり、旧約聖書『イザヤ書』第29章では、エルサレムを指す詩的・象徴的な呼称として用いられている。Boris Groysは「ユダヤの逆説、ヨーロッパの逆説『ユダヤ人の自己憎悪』によせて」において、ヨーロッパが自らの精神的起源をユダヤ的伝統に依存しながら、それを否定してきた歴史として反ユダヤ主義を捉えている。ルネサンスそのものが古代ギリシャ・ローマへの回帰として成立した新古典主義運動であったことを想起するならば、『Gucci Primavera』の内部には、欧米における複雑なユダヤ=キリスト教的な緊張関係が潜んでいるようにも見える。さらに、Ursula K. Le Guinによる『The Carrier Bag Theory of Fiction』では、人類にとって根源的だったのは英雄的な武器ではなく、何かを採集し、運搬し、保持するための”袋”であったと論じられている。その上で、『ARIELGUCCI (I'm not letting this one go)』では、GUCCIのバッグPRイメージをアリエールのPRイメージへ置き換えることで、バッグそのものを不可視化している。そもそもバッグを売りつけてくるということは、私たちが最初から「バッグ=共同体の器」を奪われているということを意味している。しかし、そんなことよりも、私はアリエールが欲しいのです。(Courtesy of the Artist)
さて、ここに書かれているのは、キリスト教文化圏への不信感です。崇高性や精神性を担っていた美学が戦争技術や行き過ぎた資本主義と抱き合わせとなって打ち出され、ユダヤ教とキリスト教の自己嫌悪的な関係(ルーツでありアンチである、というような関係)も、第三者である私たちアジア人にもわかってしまうような形で露呈しています。噛み砕いて解釈すると、やれ、崇高だーなんやーかんやーいっても、あんたら金儲けと虐殺しかしとらんやんけ、そもそもが、ルーツとしてユダヤの権威的な部分だけを利用してもアンチでいたい、というような、親に反抗する思春期真っ只中のような精神性しか持ち合わせていないのではないか、と、そのようなキリスト教文化圏への批判と読み取りました。
キリスト教文化圏とは、アート、ファッションの両方の領域においてのスタンダードを決める権威であり、アジア圏のわれわれがかつて憧れ、追従し、いまだに強い影響下にある地域です。
この不信感は、人類の根源だったはずのバッグを、洗濯洗剤という日常生活のための技術を駆使した産物に置き換えることで表現されています。「ARIEL(アリエル)」の持つ意味を、日常を生きる市民のための洗濯洗剤に書き換えているといえます。
《英雄を吸い込む排水口のダイナミズム》
こちらの3つの作品は、タイトルに《〜のダイナミズム》とあることから、未来派を参照していることが伺えます。
作家による解説は以下です。
『英雄を吸い込む排水口のダイナミズム』は、ウクライナ戦争、イスラエルによるパレスチナ人虐殺、ホルムズ海峡封鎖、防衛テック企業の台頭といった戦争状況と、日常的な暮らしを主題としたデジタル絵画である。本作では、未来派の航空美学から生まれたAeropittura、俯瞰的な爆撃都市のイメージ、そして作家の日常における食器洗いという行為が重ね合わされている。1938年、日本で国家総動員法が発令された年に、イタリア未来派のFulvio Raniero Marianiは《Turbine aereo》を発表した。本作では、Marianiが描いたタービンの回転運動や旋回飛行的な構造を、キッチンシンクの排水口(sink drain)の水流へと重ね合わせている。それにより、戦争と生活、俯瞰と目先、崇高さと低級さといった対極的な視点を、日常の内部に留めたまま構成している。現在、AI画像生成は、過去のイメージを参照しながら新たなプロパガンダ的なイメージを大量に流通させている。他方で、Anduril Industries公式サイトの無人戦闘ドローン「Fury」などの広報イメージには、未来派的航空絵画を想起させる美学が用いられている。本作は、そのような防衛テック企業の美学を換骨奪胎的に擬態しながら、現代において「英雄」とは誰なのか、またプロパガンダ絵画は何を扇動しているのかを問うている。(Courtesy of the Artist)
20世紀初頭に興った未来派は、伝統を否定し、機械化による速さを賛美しました。その思想は戦争と相性がよく、1920年代にはイタリアのファシズム運動と結びついていきます。現代においても、目まぐるしく発展するAIやロボットのテクノロジーと未来派の美学が再度結びつくのであれば、その先にはファシズムが待っているのでしょうか。
現代において「英雄」とは誰なのか。
この問いの答えが、毎日の生活で食器洗いをする市民であり続ければよいなぁ。
これらの鈴木の最近の作品に対する過去の作品は、廃棄物をベルベットで覆い、さらに圧縮袋で密閉したもの、その梱包材であるダンボール、設営時にのみ鳴るブーブークッション等で構成された立体作品です。
《Untitled(Non-homogeneous arrangement)》
この作品には、展示作業後の固定された時間ではなく、搬入、設営、展示、撤去、廃棄といった、作品展示にまつわるオペレーションの全てが内包されているといえます。
以前このブログに書いた鈴木の個展「fortunes」での作品群も、一つの状態に固定されない要素を持つものでした。鑑賞者の行動、あるいはその日の温度、湿度、風船の膨らみ具合等、さまざまな要素によって変化する作品です。
参考記事:
鈴木の作品は、ある瞬間を切り取り固定したものではありません。そのテーマは、作品を取り巻く時間や不確定な周囲の空間にあるといえます。
先にみた《ARIELGUCCI (I'm not letting this one go)》、《英雄を吸い込む排水口のダイナミズム》は、そのテーマと昨今の世界情勢が交差したものです。そこでは、ルネサンスや未来派といった美術史の過去が過去でないような様相で再び参照され、不確定な私たちの行動次第で未来がいかようにもなることを示唆しているように受け取りました。
最新作を見ることで、過去の作品がまた別の文脈を持ちうる、興味深い展示テーマでした。
キュレーションをした西田編集長の画像で締めくくりたいと思います。
体に下げているのはトモトシの《Tattooing Rights》です。トモトシの体にタトゥーを入れられる権利を販売しています。サンディアゴ・シエラの、雇われた人にタトゥーで線を引く作品を思い出しました。シエラしかり、トモトシしかり、本展の作家しかり、彼らの作品は鑑賞者に自身が部外者でなく当事者であることを突きつけてくれます。とても面白い展示でした。
展示風景画像:TAV Viewing Show「REVERSI」TAV GALLERY, 2026
今日のBGM
Last Dinosaurs「Zoom」
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2012年の曲。歌詞に「100万年後には私たちは歴史の一部になれる」的なことが歌われている。どういう100万年後になるか、現代の私たちのわずかな行動の差で変化するかもしれないと思うと、、、なんとも。
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