· 

感想 井上光太郎 個展「目覚めたくない」

 

井上光太郎 個展「目覚めたくない」

 

 

 

会 期:2026年1月17日(土) - 2026年2月21日(土)

時 間:12:00 - 19:00 

休 廊:日、月、火、祝

場 所:KOKI ARTS

展覧会URL:https://www.kokiarts.com/

 


そうした方向づけは、その後まもなく現れた映画においては、いっそう精密かつ強制的なものになる。映画では、個々の映像をどう理解するかは、先行するすべての映像のつながりによってあらかじめ指示されているように思われる。

 

(ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」 浅井健二郎 編訳 久保哲司 訳(1995)『ベンヤミン・コレクションⅠ 近代の意味』筑摩書房, p.600)

 

久しぶりの感想記事です。みなさまいかがお過ごしでしょうか。

 

私はこの年末年始、同人誌に掲載予定の長文に取り組んだり、美術手帖の芸術評論に応募したりしてました。そんなやや長い論考のようなものに挑戦しつつも、やはり「ブログ」という形式で自由に「感想」をしたためることは自分の中で「めちゃめちゃ重要だな」と思っているので、今年も不定期で更新したいと思っております。

 

 

 

さて、冒頭は、ヴァルター・ベンヤミンによる1936年の論考「複製技術時代の芸術作品」からの引用です。映画が普及しはじめ大衆文化になっていくころの論考です。ここで、映画は先行する場面のつながりによって文脈理解の方向づけがなされている、と指摘されているわけですが、、、映画が当たり前として存在する時代に生まれた私は、あまりそういうことを考えたこともなかったなぁ。

 

なんでベンヤミンのこの箇所を引用したかというと、先日、以前より気になっていた井上光太郎さんの個展に行ってきたからなのです。映画のワンシーンみたいな作品だなぁと思っていました。

 

井上さんの作品は、なにかの一場面のようでありながらその意味する文脈がはっきりと見えない、でも朧げに伝わってくるものがある、そういう空気をまとったものです。夜明け前の、一番暗いといわれているあたりの、冷えていて澄んでいるあの空気の匂いがします。

 

 

 

《夜の底を見る》

 

暗い空、荒涼とした地、一軒だけ見える家、顔の見えない人物。夢の中で一度は遭遇したことがあるような諸々。

 

それらの文脈を探ろうとすると、画面を囲う白い枠から繋がっている白樺のような木々がまるで結界のように、絵画世界と鑑賞者とを分け隔てていることに気づかされます。鑑賞者側には、描かれた世界に完全に没入することなくこちら側に固定されている感覚が生まれ、そこが映画のようでもあり、明け方の夢を見ているようにも感じられる理由ではないでしょうか。

 

 

 

この白樺のような白いシルエットの木が描かれた理由のひとつは、分割されて描かれた画面でもバラバラではなく関連を持っていることを示すためであるそうです。

 

下↓の作品は上下に画面が分割されているようにも見えますが、白い木によって統一感が生まれているのがわかります。

 

 

 

《夜をつくる》

 

在廊していた井上さんがこの《夜をつくる》の簡単な解説をしてくれました。上のほうに描かれている人物が夜をつくる人であり、下のほうの家々の白っぽい上空がだんだん夜になっていく、というストーリーがあるそうです。

 

 

そういうストーリーがありつつも、鑑賞者側がいろいろと考えたりできる余白があるところがいいなぁ、と思います。

 

 

 

さて、鑑賞者である私が勝手に思い巡らしたこととしては、これらの作品の中で「夜」はなにを象徴しているのか、ということです。

 

私は井上さんの作品に「夜明け前の、一番暗いといわれているあたりの、冷えていて澄んでいる」夜の雰囲気を感じていたわけですが、「夜」って明けることが良いことであるような文脈で語られがちだと思います。「明けない夜はない」みたいに。

 

ですが、本展の展覧会タイトルは「目覚めたくない」です。(昼のあいだに寝る人もいるとは思いますがそのような特別な例は除外して)「目覚めたくない」ということばにはどこかに「夜が明けてほしくない」というニュアンスを感じとることができます。

 

展覧会ページのテキストは、作品に描かれているものを「暗闇の気配」とし、そこに「人に寄り添う側面」を見出しています。

 

井上が描くのは、光景の中に潜む「暗闇の気配」です。かつて作家自身が孤独の中で対峙したその暗闇は、時に人に寄り添う側面を持ち合わせています。 本展の作品は、日常と非日常の境界が溶け出した夢のような場面を映し出すと同時に、私たちの心を揺さぶる「何か」を露わにしようとしています。

 

https://www.kokiarts.com/ KOKI ARTS より)

 

「人に寄り添う」暗闇、、、私は、この「夜」にはどこかモラトリアム期のようなニュアンスを感じました。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のホールデンが只中にいる、あの特別な時期です。「夜」は人の感受性を豊かにします。夜に書いた文章は必ず朝に読み返せ、としばしばいわれるように。

 

今(2026年1月現在)『冬のなんかさ、春のなんかね』というドラマが放映されているのですが、今後の展開はわからないものの、「好きってなんだろう」とか「人と人との特別な関わりとはなんだろう」という問いに向き合っている登場人物たちの物語として観ています。「青春だなぁ」と思いつつ、私自身モラトリアム期の渦中はほんとにしんどかったので「うらやましい」わけではないのです。答えの出ない問いに向き合うことってしんどい、、、。

 

私個人は、モラトリアム期からの脱出には、命からがら逃げ出すような必死さがあった記憶があります。モラトリアム期が終わって本当にラクになりました。仕事に追われること、とか、介護や闘病さえも、そこに具体的なタスクが存在することは、ある意味ラクなことなのです。

 

しかし一方で、ただタスクをこなすことをラクだと思える感性というのは、人間と機械の差を見失っている状態ともいえそうです。人間らしさとは、ただやればいいことであっても、なにも感じずには行えない、ということなのかもしれません。そもそもが非効率的にできているのです。非効率的だけれども、いろいろ感じて考えてしまうからこその長所もあります。なにか新しい道具が世界に登場した時などは、それをどうより良く使うかを考えることもできるでしょう。包丁を、人を傷つける道具ではなく調理するための道具として使えているのも、モラトリアム期があってこそなのではないか、と思います。

 

感受性が豊かになってしまう「夜」がある理由がそれなのだとしたら、タスクに追われる人間こそ「夜」が必要なのかもしれません。しかし昼だけでもダメなように、夜だけでもダメなのです。私にとってモラトリアム期がキツかったように、思弁だけでは生きられないといえます。

 

思えば「目覚めたくない」ということばは目覚めることが予め決まっている人間がいうことばです。「夜」は明けることが決まっているものだからこそ歓迎されるのではないでしょうか。

 

こう考えてみると、画面の白樺のような木が絵画の世界と鑑賞者を隔てていることはとても重要であると思えてきました。夜に見る夢や映画のワンシーンを観ているような感覚、すなわち鑑賞者がこちら側に固定されているからこそじっくりと向き合って感じとることができるものが存在する、そんな関係です。白い木と画面を囲む白い縁取りがつながっているのは、なんとなく漫画のコマ割りの余白を連想させます。私たちはメタ視点を持つ読者なのです。

 

 

 

《眠りの向こう側を覗く》

 

 

 

《クロスオーバー》

 

 

 

《ロストコーナー》

 

 

 

《寒い午後のシルエット》

 

 

 

《奥行きのない夢を見る》

 

 

 

《サマーハウス》

 

 

 

《清潔な影たち》

 

 

 

《夜の底を見る》

 

 

 

《夜をつくる》

 

 

 

《反響する、暑さを持って》

 

 

 

《夜だまり》

 

 

 

《ブルースクリーン》

 

 

 

《律儀な影に隠れて》

 

必ず描かれている家も気になるところです。そこは帰るべきところなのか、出ていくべきところなのか。目覚める時は家の灯をめがけていけばよいのかなぁ。

 



文脈から切り離された場面をじっと見つめ、自分の心に浮かぶものを見つめる、そんな時間を提供してくれる展示でした。

 

 

 

 

 

展示風景画像:井上光太郎 個展「目覚めたくない」, KOKI ARTS, 2026


本日のBGM

 

Nato Kitch「watch the planets」

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

この写真、ギターのリフ、浮遊感、そして、コインランドリーのMVが、今回の記事にピタッときました。

コインランドリーは『冬のなんかさ、春のなんかね』の1話を参照ください。このドラマ、成田凌がただのいい人で終るのか?ほんとうに?などなど、結局気になって観てしまう、、、。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



関連記事

 



関連商品リンク