菅原玄奨 個展「湿った壁」
会 期:2024年1月26日(金) - 2024年2月18日(日)
時 間:12:00-19:00
休 廊:月
場 所:EUKARYOTE
展覧会URL:
https://eukaryote.jp/exhibition/gensho_sugahara_solo_ex_2024/
外苑前の EUKARYOTE で菅原玄奨さんの個展「湿った壁」を観てきました。
菅原玄奨さんの作品は2022年11月に開催された「echo chamber」というグループ展でも拝見しています。→ 参考記事:感想「echo chamber」
本展「湿った壁」の作品に用いられている素材とは違って、「echo chamber」展では FRP (繊維強化プラスチック) を主な素材とした作品が展示されていました。
※以下の 2画像は「echo chamber」展の時のものです。本展の展示作品ではありません。
「no name #1」
「no name #2」
「no name」というタイトルからも匿名性が強調されていると感じます。グレーで統一された色合いも匿名性を強め、より質感に意識的になる作品群だと思いました。
この「echo chamber」展での作品群を含め、菅原さんの従来の制作では FRP が用いられることが多かったようです。この、滑らかで少し艶のあるような表面が特徴的な素材です。
かわって、本展「湿った壁」では、菅原さんが新たに作陶に用いられる粘土を用いて素焼きという表現に取り組んだ作品群を観ることが出来ます。
1階
「head 1」
おおお、質感が FRP とかなり違う。
「head 1」(拡大画像)
眉から目のあたり、ほとんど形作られてないみたいですが、どういう顔なのかが分かる、、、!これは、、、人の霊体を現したんでしょうか?
ヘラの跡やヒビといった粘土ならではの質感がしっかり見て取れますが、不思議と柔らかい肌の温もりを感じます。
「head 1」(部分拡大)
「head 1」(部分拡大)
「head 1」(部分拡大)
「head 1」(部分拡大)
この作品の大きさは H670 × W450 × D560 mm です。コンスタンティヌス帝の巨像には及ばないにしても、普通の人間の頭部と比べたら巨大です。なんとなく、未来で発掘された 2024年当時の彫刻作品、のような気がして不思議でした。菅原さんの作品にはどこか「未来」を感じさせる要素がある気がする。
「head 1 (maquette)」
1階の壁の裏には「head 1」のマケットがあります。マケットとは、彫刻作品における模型、スケッチのようなものです。
マケットからも不思議な生気が感じられます。
2階
階段を上がったところに展示されているこちらは「型」です。
FRP を用いた従来の制作と同じように、今回の作陶用の粘土を用いた制作でも「型」を使用しています。
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これまでFRPを素材に行ってきた制作プロセスと同じように、一度塑像によって型を成形したのち、最終的に焼成される粘土を型の内側に手で込める作業を行います。
(EUKARYOTE 菅原玄奨個展「湿った壁」Information より抜粋)
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作陶用の粘土は水分を含んでいて、自然乾燥すると成形した形を保つ性質があるので、「型」に込めた際に "込め跡" が生じます。その後の焼成というプロセスは人間がコントロール出来ない結果をもたらします。
「型」に粘土を込めることは、作者である菅原さんの「触覚そのものを具現化させる」行為で、それが乾燥したり焼成されることで生じる変化は菅原さんのコントロール外ということです。
本展では、乾燥や焼成で起こる内から外への水分の移動から内と外の "中間" 、像そのものの動作に見られる "中間" というように、 "中間" がテーマとなっているようなので、
感覚の象徴である "込め跡" をコントロール外の乾燥と焼成を通じて制作された作品には、意図と偶然、コントロールとコントロール外の "中間" が焼きついている、と言えるかもしれません。
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本展で作家は、新たな技法を探る一方で "中間" というキーワードにも着目しています。
(EUKARYOTE 菅原玄奨個展「湿った壁」Information より抜粋)
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今回の展覧会タイトルに含まれる "壁" を、外側と内側の狭間にある存在として捉えると、像そのものや動きにもその前後の "中間" であることを含ませており、私たちが刻々と身を委ねている環境や事象においても言及されているように思わせます。
(EUKARYOTE 菅原玄奨個展「湿った壁」Information より抜粋)
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「body」
この作品もどこか「未来」を感じる。そして「伝統」も感じます。それらの "中間" でもあるのでしょうか。
「body」(拡大画像)
ここで少し脱線して、ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン (1717 - 1768) というドイツの美術史家の著作『ギリシア芸術模倣論』の話をしたいのですが、この本の中では、古代ギリシャ人のプロポーションから来る、西洋美術における古典の概念が説かれています。
ギリシア芸術模倣論 (岩波文庫 青586-1)
ヴィンケルマン (著)
田邊 玲子 (翻訳)
岩波書店
2022
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西洋美術が「古典」と言った時、それが示すものはこのヴィンケルマンが説いた、古代ギリシャ人のプロポーションの粋を集めた彫像の概念、であるのです。
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われわれの時代の自然の肉体をもとにしていては、アンティノウス・アドミランドゥスほどに完全な身体は容易には生みだせないだろうし、理念とて、ヴァチカンのアポロのような、人間を超越した美しい神性にまさるものを形作ることもできないだろう。ギリシアの彫像にこそ、自然、精神、芸術が生み出しえた最高のものがある。
(ヴィンケルマン 著、田邊 玲子 翻訳『ギリシア芸術模倣論』岩波書店 2022, pp.36-37)
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ヴァチカンのアポロとは、《ベルヴェデーレのアポロ》のことです。
佐藤直樹 著『東京藝大で教わる西洋美術の見かた』にも、この《ベルヴェデーレのアポロ》が多くの芸術家にとっての「古典」であったことが記されています。
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一方で、ルネサンスの芸術家たちが実際に参照した古代美術とは何だったのでしょうか。それは、何よりも《ベルヴェデーレのアポロ》に尽きます。この彫像は、紀元前三三〇年頃のギリシャのブロンズ像に基づいたローマ時代の大理石による模刻です。法王ユリウス二世の所領の農地で一四八九年に発掘され、教皇自慢のヴァチカンの彫刻庭園に置かれて今日に至っています。多くの芸術家たちがヴァチカンを訪れると《ベルヴェデーレのアポロ》や《ラオコーン》を素描しました。
(佐藤直樹『東京藝大で教わる西洋美術の見かた』世界文化社 2021, P12)
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なぜこの話をしたかと言うと、菅原さんの作品を観た時に「伝統」も感じたのは、ひょっとしたら日本人の私にも潜在的に「古典」となっている姿形がありそう、と思ったからです。日本人にとっての《ベルヴェデーレのアポロ》は存在するんじゃないか。
(日本人って言うと主語が大き過ぎ、になるかもしれませんが、可能性の話です)
一つ思い浮かんだのは百済観音です。この緩やかにお腹を前に突き出したバランスが、私の中では、自然、精神、芸術、の象徴である気がします。
背の高さは違いますが、この美しい緩やかなカーブと、リラックスしているような体重の置き方、しなやかさ等が、菅原さんの作品にも見られます。
「body」(別角度から撮影)
「body」(別角度から撮影)
全身から見て相対的に長く感じられる手や、スニーカーで膨らんで見える足の甲が、釈迦の特徴 (三十二相) に当てはまるような気もしました。
「body」(別角度から撮影)
手が長いように感じたのです。が、、、
「body」(部分拡大)
「body」(部分拡大)
以上のようなことから、「未来で発掘される古典」という印象を受けたのだと思います。
筋肉美の西洋の古典とは違い、「柔よく剛を制す」的なしなやかさが日本人の潜在的な古典、という可能性はある。
3階
左:「bust 1」 右:「bust 2」
左:「bust 1」 右:「bust 2」 (拡大画像)
左:「bust 1」 右:「bust 2」(別角度から撮影)
「きこえる?」
何か物語が生まれそうな余白を感じる 2作品です。距離が意味深。ひょっとしたら何の関係もない 2作品かもしれないのに、この "間" があることで物語が無限に広がっていくようです。
「bust 1」(拡大画像)
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新作の人物像は、貝殻に直接耳を当てているのではなく、これから当てようとしているのか、 あるいは当て終わったのか、定かではない状態で静止しています。巻貝を耳に当てると波の音が聞こえるという言説は、実は自分自身の鼓動や血流の音が反響しているとも言われており、ここでも内と外の要素が錯綜する菅原のストーリーが織り込まれています。
(EUKARYOTE 菅原玄奨個展「湿った壁」Information より抜粋)
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頰に触れそうで触れない、半跏思惟像的な美的感覚も刺激されます。
「bust 2」(拡大画像)
照明による影の出現具合で色々な表情に見えます。
鑑賞時は感じなかったのですが、撮影した画像を見てみるとかすかに微笑んでいるように思えて、「bust 1」と合わせると、ちょっとミステリー味も感じてしまいました。
いやー、想像が広がるなー。
左:「bust 1」 右:「bust 2」
作品が載っている台について。台が持つ権威性に疑問を投げかけるようなディスプレイです。工作室を想起させるこの鮮やかな黄色の台は、作品が制作の途中にあるような印象も与えています。
先ほどの、無限に広がっていくような物語、ということにも通じる、完結していない物語という意味での途中です。
作品制作の完結とは鑑賞者に受け取られること、であるなら、完全に分かった、と鑑賞者に感じさせない余白を持つ作品群は、ある意味で途中という "中間" の位置にある、とも言えそうです。
"中間" というキーワードで改めて観てみると、内部から外部に水を通す壁のようなものであり、目に見えないけれども実体と実体との間にある霊体のようなものであり、未来で発掘されるかもしれない古典というような時間的な間であり、作品が受け取られる過程であり、、、と様々なことに捉えて鑑賞出来ました。
でもやっぱり一番は、日本人の潜在的な美意識に刺さる、ということがとても印象に残っています。現代の作品だけど、未来において「日本人の古典を明らかにした」と評されるかもしれません。ぜひ、足を運んでみてください。
展示風景画像:菅原玄奨 個展「湿った壁」EUKARYOTE , 2024
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