大西晃生 個展 「I'm tired」
会 期:2022年2月11日(金) - 2022年3月1日(火)
時 間:13時-18時
休 廊:水木金
場 所:GALLERY KTO
展覧会URL:
2021年の秋にSNSで情報を拝見したGALLERY KTO・サブスティテュート (モッズ ファッション ショップ "blues dress" (渋谷区神南) に ART 作品を展示していくプロジェクト)で、大西晃生さんの作品を知りました。くしゃくしゃに折られた顔を描いた作品と洗練されたアパレルの組み合わせがオルタナティヴ・スペースでの新しい展示の形と感じ、観に行きたかったのですが残念ながら予定が合わず終い。作品のインパクトが脳裏に焼き付いていて、今回、神宮前のGALLERY KTOさんでの展覧会に伺うことができました。
大西晃生さんは1996年生まれ、京都精華大学デザイン学部卒業。「CAF賞2018」入選、「シェル美術賞2020」入選、グループ展や個展などでも作品を発表されており、前述の "blues dress" さんで展示されていた作品は、在学中の2018年頃から継続的に描かれていたstill life シリーズ=「くしゃくしゃの顔の絵画」です。本展では、俗にダッチワイフ (ラブドール、空気人形、エアーマスコット) と呼ばれる、空気を入れて使用する人形を、資本主義社会に生きる現代人や自身に見立てて制作された、セルフポートレートのシリーズです。
「無題」
上:「無題」 下:「無題」
作品からはダッチワイフらしさが感じられず、ステートメントや作品制作に至る状況を知らずとも「ぐったり」とした、かわいそうになるほどの姿が描かれています。何度か遭遇したことがあるような、電車の中で居眠りをしている会社帰りの人の体勢です。
「無題」
お尻を出していても、エロい場面というよりは、着替えてる途中で寝ちゃった、というような状況を想像してしまう。
着替えながら寝るなんて、と思いますが、泥酔時など心当たりが無くはない人もいるかも?
それだけ疲れていた、、、。
「孤立」
これは自ら空気を入れています。何とか気合いを入れている。これも心当たりがあるなぁ、、、。
大西さんご本人にお話を伺うことができました。本展には大西さんの言葉も寄せられており、そこにはくたくたに疲れて空気が抜けたようになってしまった日常の様子も描写されています。この作品のように、自ら気力を注入するような朝もあったそうです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
今日も疲れた、おやすみなさい。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
大西さんは会社勤めの経験から、資本主義社会においての商品としての労働力、その対価としての賃金、そういったことを立ち止まって考える機会を得たと言及しています。商品化された生身の人間は、次第に無機質さをまとい始めたようです。折り合いをつけるためか、そちらの方が合理的だからか。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
表面は立派で綺麗で清潔、しかし中身が空洞で、自分の価値を他人に求め、型抜きで量産されたような無機質な人の姿をした皮がどこかで聞いたような事を喋っている。
それは何だか可笑しいような悲しいような情けないような.. なんとも言えない気持ちが整理されず頭の中で散らかっている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
人が「その人である」ということはどういうことでしょうか。性格だったり、考え方だったり、価値観だったり、特異な癖だったり、フェチと呼ばれる嗜好だったり。それは必ずしも万人に受け入れられるものではありません。
アーティストはもとより、何かを生み出すという創造性が求められる仕事に必要とされるのは、没個性的なものではないはずです。ただし現代では、その創造性を発揮できるポジションに就ける人は限られています。
一部の選ばれた個性以外は無機質であれ。
そういった理不尽な、折り合いをつけがたい現状にさらされ続け、気が抜けて、やがて抜け殻のように疲れてしまう。
大西さんの作品には背景がありません。ここは、路上なのか、散らかった部屋なのか、というように様々な解釈を可能にする意図もあるとのことでしたが、私が感じるに、風船の表面でしかないダッチワイフの追いやられた自我を露すためには、背景を無くすことが必然だったように思うのです。
2022年2月の現在、公立美術館で開催されていたとある展示が少なからず不評で、逆に興味を持ち鑑賞してきました。色々な方が手厳しい評価をされているので細かいことは省きますが、結論として、私も好きにはなれませんでした。その理由を深く探ってみると、鑑賞に来ていた多くの人が答えを示していたことに気づきます。カメラを自分に向けて、作品はあくまでも背景、というような撮り方をしていました。私が思う良い作品とその鑑賞の空間では、圧倒的な存在感や主張を感じ、老若男女、著名な批評家だろうがアートに初めて触れた人だろうが、作品に注目せざるを得ない瞬間というものが確実にあるもので、その展示にはそれが感じられなかった。鑑賞者が一律に作品と対峙するような平等性が感じられず、写真を撮っている人たちのSNSのフォロワー数のような、どうでもいい格差が透けて見える、そんな空間でした。自撮りや写真を撮ることが悪いのではありません。映える投稿に容易く埋もれてしまいそうな作品が好きにはなれなかったということです。
大西さんの作品には、それとは逆に、無機質で没個性的とされる題材を選んでいながら、無くせない微かな自我が浮きあがって見えます。自我とは、見た通りの少し膨らんで形を保っている人型であり、主張する作品そのものでもあります。
「I as a goods」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
I as a goods ( 商品としての私)
1. I'm a character.(私はキャラクターである。)
2. I can mass produce.(私は大量生産可能である。)
3. I'm cheap.(私は安価である。)
4. I may be resold.(私は転売される可能性がある。)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
まるでお金のために作られた量産型アートへの批判のようでもあります。
展示風景画像:大西晃生 個展 「I'm tired」
「無題」
上:「食事」 下:「食事」
「無知」
「無知」(部分拡大)
何気なく動画で観ているのは1942年に公開された「ハワイ・マレー沖海戦」。東宝が製作した太平洋戦争中のプロパガンダ映画です。「ゴジラ」「ウルトラマン」などを世に送り出した円谷プロダクション創立者の円谷英二が特撮を担当。海軍省の至上命令で製作されたにも関わらず、「カツドウ屋は信じられない」と肝心の軍事資料の協力を受けられなかったそうです。作中の空母はアメリカ海軍空母の写真を参考に実物大のセットが作られ、そのあまりの精巧さに、戦後、GHQが本物と勘違いして映像を差し押さえようとした逸話があります。
そんなことは露知らず、食しているのはアメリカ合衆国を代表するファストフード。深読みできる情景が描かれていたりします。
「真実」
スマートフォンの画面に映った文字は "The World's Hidden Truth"。陰謀を押し付けられてる、の図。本人には見えてない。
「脚」
宙に浮いている。「地に足がついていない」なんて、昔から若者に対してよく使われる言葉。内側が空洞のままではどうにもできない。
「病」
「病」(部分拡大)
発疹のような赤丸シール。作品が売約済みであることを示す際によく使われるシールでもあります。たくさん売れている状態、資本主義のルールの中での競争と、自らを切り売りすることでそれに対応する作家の姿のようにも感じられます。
大西さんにとってこの等身大のセルフポートレイトは、もう一人の自分という感覚もあるそうです。今後もペインティングの表現の中で、白い空間からまた違う空間に置いてみるなども考えているとのこと。
共感できる題材でありながらも、観る人を立ち止まらせる力のある作品群です。絵の中で彼はどのような変化を遂げていくのか。ぜひ足を運んでみてください。
関連記事
コメントをお書きください